史上初の「一帝二后」
入内から6日後の11月7日、彰子に女御宣旨が下されたが、同日の早朝、定子が一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産した。
幼い彰子はまだ一条天皇の寵愛の対象にはなり得なかったが、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を一条天皇に迫り、長保2年(1000)2月に決行する。
こうして、皇后定子と中宮彰子の二人が一条天皇の正妻となったが、同年12月、定子が第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に死去したことにより、一帝二后は解消された。
14歳で3歳児の母となる
翌長保3年(1001)8月、彰子は定子の忘れ形見で、一条天皇の第一皇子である敦康親王の養母となった。彰子は14歳、敦康親王は3歳であった。
これは、この時点で唯一の皇位継承資格者である敦康親王を、彰子が皇子を出産できなかった場合の保険として、また外戚の地位を故定子の兄弟・藤原伊周や隆家ら中関白家に渡さないためだという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 東海林亜矢子「第四章 正妻源倫子 ◎妻として、母として、同志として」)。
敦康親王は、彰子の御在所で育てられることになった。
ところが、一条天皇は、敦康親王の「御母代」として仕えていた定子の実妹・御匣殿(道隆四女)を寵愛し、懐妊させたという。
御匣殿は懐妊したまま亡くなったとされるが、もし、この話が史実だとしたら、彰子は深く傷ついただろう。
だが、その後も、彰子は一条天皇とともに敦康親王を大切に育てたという。