天下第一の母

 長和元年(1012)2月14日、三条天皇に入内していた彰子の同母妹・藤原姸子が中宮となり、彰子は皇太后となった。

 長和5年(1016)正月29日、三条天皇は眼病の悪化と道長の圧力を受け、彼の第一皇子の敦明親王(母は三条天皇の皇后・藤原娍子)の立太子を条件に譲位する。

 これにより、彰子の長男で、道長の孫の敦成親王が9歳で践祚し、後一条天皇となった。

 彰子は29歳にして、国母(天皇の母)と敬われる立場となり、幼い帝と共治を行ない、政務全般に積極的に関わっていく。

 道長は摂政に任じられたが、翌寛仁元年(1017)3月に辞任し、長男の藤原頼通(彰子の同母弟)に、その地位を譲っている。

 同年5月に三条院が崩御すると、後ろ盾を失った敦明親王は、8月に自ら皇太子を辞した。

 彰子はこの時も、次の皇太子には定子が産んだ敦康親王を推したとされるが、皇太子に立てられたのは、彰子の次男・敦良親王だった。

 歴史物語『大鏡』第五巻「太政大臣道長 上」では天皇と皇太子の母となった彰子を、「天下第一の母」と称している。

 

「賢后と申すべき」

 彰子は万寿3年(1026)正月、39歳のときに出家し、上東門院の称号を受け、道長の姉・吉田羊が演じる東三条院詮子に次ぐ、二人目の女院となった。

 翌万寿4年(1027)12月に道長が亡くなってからは、天皇家や摂関家の実質的な家長といわれる役割を果たしていく。

 後一条天皇が母・彰子に先立ち、長元9年(1036)に29歳で崩御すると、皇太子の敦良(彰子の次男)が28歳で即位して、後朱雀天皇となった。

 彰子は、天皇の母として後朱雀天皇を支える。

 だが、後朱雀天皇も、寛徳2年(1045)正月16日に病のため、皇太子の親仁(父は後朱雀天皇、母は彰子の妹・藤原嬉子)に譲位すると、二日後に37歳で崩御してしまう。彰子は息子二人に先立たれたのだ。

 同年4月、親仁が21歳で即位し後冷泉天皇となると、彰子は祖母として後見した。彰子は58歳になっていた。

 彰子は、この孫の後冷泉天皇にも先立たれてしまう。

 治暦4年(1068)4月、後冷泉天皇が44歳で崩御すると、後朱雀天皇(彰子の次男)と禎子内親王(父は三条天皇、母は彰子の妹・藤原妍子)の皇子で、彰子の孫にあたる尊仁親王が即位し、後三条天皇となった。

 彰子はこの後三条天皇にも先立たれ、曽孫・白河天皇の治世下の承保元年(1074)10月3日に、87歳で、長い人生に幕を下ろした。

 彰子の儀礼は院政期の男院(上皇)から、あやかるべき先例とされた。

 秋山竜次が演じる藤原実資は、彰子を「賢后と申すべき」と称している(『小右記』長和2年(1013)2月25日条)。

 まだ幼く、儚げな「いけにえの姫」であるドラマの彰子は、どのように国母と仰がれる賢后へと変貌していくのだろうか。