取材・文=吉田さらさ 

多賀大社 鳥居

滋賀県随一の古社

 今回はわたしの大好きな近江にある多賀大社をご紹介しよう。お隣の京都に比べてなんとなく地味なイメージがある滋賀県だが、歴史は古く、各所に訪れるべき神社仏閣がある。中でもこの多賀大社は指折りの格式と規模を誇る滋賀県随一の古社だ。

 御祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。古事記によれば、この二柱は男女の夫婦神で、まず日本の国土を形作る島々を産み、続いて八百万の神々を産んだ。さら三貴子と呼ばれるもっとも重要な神、天照大神、月読命、須佐之男命も誕生し、そこから地上の人間にもつながって行く。「お伊勢参らばお多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる」という古くから伝わる歌がある。つまりお多賀さんはわれわれの祖先神が鎮座するところでもあり、はるばる伊勢まで詣でるなら、さらに足を伸ばしてお多賀さんにもご挨拶をするべきだということだ。

 伊勢神宮の祭神が天照大神であるため「お伊勢お多賀の子でござる」となるのだが、天照大神を含む三貴子は、正しくは伊邪那岐大神と伊邪那岐大神の間に生まれたわけではない。伊邪那美大神は伊邪那岐大神と力を合わせて国生みを終えた後、海の神、山の神などを次々と産んだ。しか火の神を産んだ際に産道にやけどを負って亡くなり、黄泉の国に行ってしまう。

 伊邪那岐大神は妻に会いたい一心で黄泉の国を訪ねるが、伊邪那美大神は「よいと言うまでわたしの姿を見るな」と言った。しかし好奇心にかられた伊邪那岐大神がつい見てしまうと、あの美しかった妻は見るも無残な骸になり果てていた。伊邪那岐大神がその恐ろしい姿を見て逃げ出すと、伊邪那美大神はものすごい形相で追ってきた。そして、この世とあの世の境目を岩で閉じてなんとか逃げおおせた。見るなと言ったのに勝手に見て、しかも醜かったから逃げるなんて、女性の目から見ると、これはちょっとあんまりな結末である。

 さて、どうにか黄泉の国から戻ることができた伊邪那岐大神は、体についてしまった穢れを洗い落としにかかった。これが今も行われる禊ぎのはじまりである。ここでもさまざまな神が生まれ、最後に左の目を洗った際に天照大神、右目を洗った際に月讀命、鼻を洗った際に須佐之男命が生まれた。というわけで、この三貴子は伊邪那岐大神が単独で産んだ神と読み取れる。もっとも、ここまでの話から、これも夫婦神二柱の最後の共同作業という考え方もあるのだろう。

 伊邪那岐大神は三貴子それぞれが治めるべき場所を決め、天照大神は高天原を担当することとなった。しかし須佐之男命はなぜか自分に与えられた海原に行きたくないと駄々をこね、伊邪那岐大神はこれに腹を立てて須佐之男命を追放した。そして自分の仕事はもう終わったと判断して身を隠し、淡海の多賀に鎮座したと古事記には書かれている。

 ここではその「淡海の多賀」がどこかという点が問題になる。近江の多賀と考えればそのまま多賀大社ということになるのだが、日本書紀には、淡路島の「幽宮」というところに身を隠したとも書かれており、実際に淡路市多賀というところに伊弉諾神宮という立派な神社もある。そのため「淡海」は「淡路」の書き間違いかも知れないという説もある。

 さて、どちらが本当の伊邪那岐大神の坐すところなのか。これに関する正解は今のところ見つかっていないが、もっと不思議なのは、あれほどひどい別れ方をして黄泉の国に置き去りにされたはずなのに、今はどちらの神社でも、伊邪那岐大神の傍らに伊邪那美大神が寄り添っていることだ。そもそも神々がお考えは、われわれ地上の人間にははかり知れないものだが、おそらく伊邪那美大神は長年かかって怒りを収め、広い心で伊邪那岐大神をお許しになったのではないかと推察する。