取材・文=吉田さらさ
紫式部と縁の深い宇治
大河ドラマ「光る君へ」が好調である。4月現在、まひろこと紫式部はまだ『源氏物語』を書くには至っていないが、この長い長い物語は全部で五十四帖。そのうち最後の十帖は京都の宇治を舞台にしている。
光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子の源融が建てた別荘が宇治にあり、この別荘は、その後藤原道長のものとなった。道長は「光る君へ」の中では、まひろの実らぬ恋の相手となっている三郎であり、道長の子頼道が、その別荘があった場所に平等院を建てた。ということで、紫式部と宇治は何かと縁が深い。今回は、その宇治にある二つの神社、宇治神社と宇治上神社を訪ねる。
せっかく宇治にまで足を伸ばしたなら、やはりまず行きたいのは平等院だ。宇治橋のたもとにある紫式部像の前で記念撮影をしたのち、表参道を歩いて向かうのが王道コースである。鳳凰堂内部も拝観するなら行列も覚悟の上で。京都の中心部ほどではないにせよ、ここもやはり観光客はかなり多い。
平安貴族が思い描いた極楽浄土の世界を堪能したら、表参道には戻らず、南門から出る。喜撰橋と呼ばれる小さな橋を渡ると、十三重の石塔が聳える塔の島、続いて橘島という中州がある。このあたりから眺める宇治川の風景は実に趣き深く、平安貴族が好んでここに別荘を建てたのも頷ける。そこから朝霧橋を渡ると、いよいよ今回の目的地である宇治神社の石段がある。ここまで来ると観光客の姿はぐっと少なくなり、何やら別世界に来た心地がする。
地名の由来とされる「宇治神社」
宇治神社は、次に行く宇治上神社と対をなす古社で、2023年に創祀1710年を迎えた宇治の氏神である。祭神は菟道稚郎子命。「うじのわきいらつこのみこと」と読む。菟道と書いて「うじ」。宇治の地名はここから来ていると言われる。この人は古事記や日本書紀に登場する古代日本の有名人の一人だ。
第十五代応神天皇の皇子で、兄は第十六代仁徳天皇。応神天皇は三韓征伐で知られる神功皇后の子で、またの名を誉田別命。全国の八幡宮、八幡神社の祭神である。仁徳天皇は、かまどから煙が立ち上らないのを見て民の貧しさを知り、租税を三年間免除したことで知られる聖帝で、世界最大の墳墓「仁徳天皇陵」に埋葬されていると言われる。
実は応神天皇は弟の菟道稚郎子命の方を跡継ぎとして指名していたのだが、父親の死後、弟は「自分よりお兄さまの方が跡継ぎにふさわしい」と言い出し、兄は「いやいや、父の取り決め通り弟が跡を継ぐべきだ」と言った。兄弟の譲り合いが続き、天皇の座は三年間も空位となった。その間国が乱れ、最後に弟の菟道稚郎子命が自らの命を絶つまでして兄に皇位を譲った。その結果、兄が第十六代仁徳天皇として即位したのである。
にわかには信じがたい美しすぎる兄弟愛だが、これは日本書紀にのみ書かれている話で、古事記には、単に弟の菟道稚郎子命は早くに亡くなったと書かれているだけだ。うーむ、何やら裏がありそうな気もする。
それはさておき、当初宇治には父親の応神天皇の住居があり、のちには菟道稚郎子命もここに居を構えたということだ。仁徳天皇は自死をしてまで自分に天皇の位を譲ろうとした弟の死を悼み、この地にその神霊を祀った。それが宇治神社のはじまりである。
菟道稚郎子命は幼いころから賢く、渡来系の学者を教師として学問を収めたことから、学業の神、試験合格の神として信仰されてきた。菟道稚郎子命はもともと河内に住んでいたのだが、この地を住まいと定めてやって来る際に道に迷ったという伝承もある。その際は、どこからともなく一匹のうさぎが現れ、道案内をしてくれたという。なるほど、兎の道→菟道→宇治と変化して地名になったのだ。
この神社では、そのうさぎを「みかえりうさぎ」と呼び、神のお使いとしている。人生に迷ったときにお参りすると正しい道を示してくれる、頼れるうさぎさんだ。境内には三体のみかえりうさぎの像があり、絵馬にお願いごとを書いて本殿の回りを三周する間に三体すべてを発見すると、願いごと以上のご利益を授かるとも言われている。うさぎ像は案外簡単に見つかるので、ぜひ挑戦してみて欲しい。