花山天皇の出家は、藤原詮子の陰謀?

 寛和2年(986)6月23日の丑の刻(午前1時~3時)、花山は密かに内裏を出ると、東山の花山寺(元慶寺/京都市)に行き、出家した(寛和の変)。

 平安末期の歴史書『扶桑略記』(『国史大系』第6巻所収)によれば、このとき花山を内裏から連れ出したのは、蔵人の玉置玲央が演じる藤原道兼(961~995/道長の同母兄)と、厳久という僧侶だったという。

 藤原義懐も藤原惟成も、翌日に花山の後を追って出家している(『日本紀略』)。

 これにより、皇太子である義懐親王が7歳で即位し、一条天皇が誕生した。

 藤原兼家は天皇の外祖父の座を手に入れ、摂政に任じられた。

 一般に、花山の突然の出家は、外孫の義懐親王を早く即位させたい藤原兼家が企んだものと考えられている。

 だが、歴史学者の繁田信一氏は、真の黒幕は、義懐親王の母である藤原詮子なのかもしれないと述べている。

 その理由は、花山の出家において重要な役目を担った僧侶の厳久が、詮子の強い後援を得て、僧侶として出世を重ねていったからだという。しかも、それに兼家は関わっていないそうだ。

 繁田信一氏は、少なくとも厳久を引き込んだのが、詮子だったのは間違いないだろうとしている(以上、繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 裏で糸を引いていたのは、詮子だったのだろうか。

 

退位後の花山は?

月岡芳年「都幾の百姿」「花山寺の月」

 花山天皇の在位期間は1年10ヶ月で、退位時、19歳であった。

 その後、花山は21年8ヶ月、上皇として生きることになる。

 退位した花山はしばらくの間、各地を訪れて、仏道修行に励んだ。

 帰京後は、奔放な女性関係などで世間を騒がせる一方で、和歌や絵画、建築や工芸などを嗜み才能を発揮する風雅な日々を送ったとされる。

 寛弘5年(1008)2月、41歳で崩御して、紙屋川上陵(京都市北区)に葬られた。