相次ぐ近親者の死
皇太子となった花山は一条第を出て、平安京内裏五舎の一つで、前庭に紅白の梅が植えられたことから「梅壺」とも呼ばれる「凝華舎」を居とした。
花山の外祖父・藤原伊尹は、天禄元年(970)に右大臣、摂政となり、翌天禄2年(971)には正二位太政大臣に任じられた。
この伊尹が長く健在であれば、花山の人生もまた違ったものになっただろう。
だが、伊尹は天禄3年(972)11月、花山が5歳のとき、49歳で病死してしまう。
さらに天延2年(974)9月には、母・藤原懐子の弟である藤原挙賢と藤原義孝が同日に死去し、翌天延3年(975)には、4月に母・懐子が31歳で、異母妹の光子が3歳で、この世を去った(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。花山、8歳のときのことである。
花山の外戚(母の父、もしくは兄弟)で存命なのは、高橋光臣が演じる外叔父の藤原義懐(957~1008)だけだったという。
権勢者であった外祖父の伊尹にくわえ、藤原挙賢と藤原義孝の二人の叔父、母・懐子と、立て続けに近親者を失った花山の後見は弱く、権力基盤はとても脆いものであった。
祖母・恵子女王に養育される
母・懐子亡き後、花山は、懐子の母・恵子女王(925~992/代明親王の娘)に養育された。
貞元2年(977)、花山10歳のとき、読書初めの儀が行なわれたが、そのとき副侍読を務めたのが、岸谷五朗が演じる藤原為時(紫式部の父)である。
天元5年(982)2月には、15歳で元服している。
当時は、元服と同時にキサキが決まるのが、「貴人の習わし」だったというが、花山の場合、そのような存在は確認できないという(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。
後見が弱い皇太子と、姻戚を結ぶ者はいなかったのだろうか。