正岡子規からの問いと漱石の答え

正岡子規

 精神を病んで36歳で再び東京の戻った漱石は、東京で第一高等学校の英語嘱託として年俸700円、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学英文学科講師として年俸800円、明治大学非常勤講師として年俸360円、合計1860円を得ました。

 この教師時代、漱石はいつもイライラしていたといいます。学生にも厳しく、しまいには漱石の授業を取る帝大生は一人もいなくなってしまいます。

 自分が本当にしたいことはなんなのか、そうするにはどうしたらいいのか。自分の力で人生を変えなければならない状況に追い込まれ、漱石は苦悩していました。

 ありし日、漱石は親友・正岡子規から「お前の将来の目的はなんなんだ」と聞かれたことがあります。

 熊本に赴任していた明治30年(1897)4月23日付の子規宛の手紙に漱石は、「教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」と、その問いに応えています。

「文学的の生活」には英文学の研究や、子規に鍛えられた俳句、14歳の頃に通った二松學舍(漢学塾。現・二松學舍大学の前身)で学んだ漢詩も含まれています。この頃漱石は、自分が小説を書けるとは思っていなかったと思います。実際私は、漱石には俳句や漢詩の才能のほうに抜群の才能があると評価しています。

 正岡子規は漱石の留学中の明治35年(1902)、人生の全てを最後まで文学に捧げ、34歳の人生に幕を下ろします。子規の死も漱石には大きく響いたことでしょう。

 イギリスから帰国して以来、気分が落ち込みがちだった漱石に、子規門下の高浜虚子は気晴らしにと、俳句雑誌『ホトトギス』への寄稿を依頼します。

 明治38年(1905)、俳句雑誌『ホトトギス』に漱石が書いたのは、『吾輩は猫である』でした。発表するや信じられないほど売れ、そしてこのことが、漱石の人生を大きく変えることになるのです。