極貧のイギリス留学時代

 もともと英文学の研究をしたいと思っていた漱石は、イギリス留学を望んでしました。しかし、私費留学する余裕はとてもありません。

 帝国大学文化大学国語研究室主任であり、文部省専門学務局長を勤めていた上田万年という人物と、同じ帝大の国文学者・芳賀矢一の間で、漱石をイギリスに留学させようという話が出ます。3人は同年の生まれで、学術・文芸雑誌『帝国文学』でお互いを知っている仲でした。

 上田万年は文部省が初めて派遣する給費留学生に漱石を推薦し、漱石はこれを受けます。帝国大学卒業後、大学院も出てイギリス留学、といえば学者としてのエリート街道まっしぐら、と思うかもしれませんが、現実は厳しいものでした。

 留学期間の待遇は現職のまま年額1800円の留学費、留守宅に休職給年額300円支給というものでした。年額1800円は、十分といえる留学費用ではありませんでした。ひと月150円で生活しなければなりません。今のお金に換算すると15〜20万円程度。同じ頃、帝国海軍からロシアに留学していた広瀬武夫海軍大尉の留学費は4000円だったそうですから、どれだけ少ないかがよくわかります。

 ロンドンで漱石ははじめ、大英博物館に近いブルームベリーに下宿しました。食事付きで1日6円。下宿代だけで留学費では賄えない額でした。「日本の1円がロンドンでは10円くらい」と漱石が手紙に記したように、当時のロンドンは世界一物価が高いと言われていました。

 漱石はこの地で凄まじい貧しさと戦い、ついには精神を病んでしまうのです。同じ文部省留学生としてドイツにいた芳賀矢一は帰国の途中、ロンドンにいる漱石を訪ね、「夏目、狂セリ」と文部省に電報を打ったと言う説も残っています。