慎ましい大学生活を終えた漱石は、のちの『坊っちゃん』の舞台となった松山の中学校の教師を経て、熊本県第五高等学校の教師になります。中根鏡子と結婚もしてようやく生活が安定した漱石に、さらなる苦難が襲いかかります。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

新宿区立漱石公園にある夏目漱石像 写真=フォトライブラリー

慎ましい大学生活と、ようやく安定した教師時代

 或時私は二階へ上(あが)って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。(中略)

 私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣(つか)ったのか、その辺も明瞭(めいりょう)でないけれども、小供の私にはとても償(つぐな)う訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚(あ)げて下にいる母を呼んだのである。(中略)

 私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉(うれ)しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。

 私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。

『夏目漱石全集10』より『硝子戸の中 三十八』(ちくま文庫)

『硝子戸の中』は漱石が死の前年に書いた最後の随筆です。大正4年(1915)1月13日から2月23日の39回にわたって『朝日新聞』に掲載されました。自己については寡黙であった漱石が、「自分以外にあまり関係のない詰らぬ事」とことわって書いたエッセイの中のひとつです。

 庚申の日に生まれた子供は大出世か大泥棒になるという謂れがまだ心にかかっていたのか、それともこれまでにお金の苦労が、根強く残っていたのか。晩年になってもその想いは残っていたようです。

 さて、大学に入ってからも、漱石のお金の苦労は続きます。

帝国大学時代の漱石

 学問をしなければ良い就職はできないと考えていた漱石は、明治23年(1890)、帝国大学文化大学英文学科に入学します。文部省貸費生となって年額85円の奨学金が支給されることになりましたが、授業料や本代、その他生活に必要なお金がかかり、かなりギリギリの生活でした。そのうえ奨学金は卒業後、毎月7円50銭ずつ、返済しなければなりません。

 少しでもお金を稼ごうと、漱石は東京専門学校(現・早稲田大学の前身)の講師をしたりしていました。大学院に進んでからも条件の良い就職先はなかなか見つからず、高等師範学校教授の先輩に教師の就職口を頼みますが採用は成らず、月2回の出講の仕事を得ただけでした。

 そして学習院嘱託教授の知人を頼り、高給だった学習院への就職がいよいよ叶うと思っていた漱石は、授業の時に着用が必要だったモーニングを誂えます。にもかかわらず、採用されなかったため、結局モーニングは無駄になってしまいます。

 そんな時、帝国大学時代の友人・菅虎雄(ドイツ語学者)から愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)の英語教員に誘われるのです。「外国人教師並みの待遇なら行ってもよい」と漱石は答えたといいます。当時のお雇い外国人の月給はイギリス人の場合、理系で296円、文系で150円くらいという高給でした。

 すると幸運にも校長の給料は60円、同僚の英語教師は40円というなか、月給80円という当時にしては良い条件で雇われることになります。これまで損ばかりしてきた漱石でしたが、ようやく生活が安定します。

愛媛県尋常中学校教師の漱石

 東京を離れ、松山での生活はそれなりに充実していました。親友・正岡子規との共同生活で俳句や文学への思いを深め、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いもして結婚も決めます。この時漱石は28歳でした。

 しかし松山にいたのは1年で、また菅虎雄から、今度は自分がいる熊本の第五高等学校に誘われます。月給はさらに上がって100円。漱石は妻となった鏡子とともに、熊本に赴任します。

 お金の苦労からは解放された漱石でしたが、妻・鏡子が慣れない土地でノイローゼになり、家の近くの川で等身自殺を図るという出来事がありました。流産が原因とも言われますが、職人に助けられて事なきを得ました。以来漱石は、鏡子と自分の体を紐で結んで寝るようになったそうです。

 明治32年(1899)、長女・筆子が生まれたことを機に、鏡子のノイローゼはすっかり治りました。熊本での夫婦生活が最も幸福なものだったのではないか、と、後年、漱石の次男・伸六は記しています。