フィギュアスケートであげられてきた課題

 NHK杯では、宇野に限らず女子をみても、回転不足に関して厳しいと感じさせる局面があった。大会を通じて厳しくみていたとも解釈できる。だが、グランプリシリーズは最終戦のNHK杯を含め6戦行われている。他の大会でも同じような基準であればここまで多くの人に波紋を投げかけなかっただろう。

 だが今回の際立った厳しさは他の大会とは異なる。それは基準にぶれがあること、大会ごとのジャッジのばらつきを示している。ジャッジはジャンプやスピンなどの要素の種類やレベルなどをみる技術審判、各要素のGOEの評価や演技構成点をみる演技審判などから成り立っているが大会を通じて同メンバーではない。各所からの「厳しい」という声は、他の大会と比べてのものであり、人が変われば基準が変わることを意味している。回転不足の問題に限らず、GOEにおいてもプラスとマイナスとで極端に振れるケースが過去にあったのも、それを示しているのかもしれない。

 これまではクリーンとされていたものが回転不足とされるなら、シーズンを通して競われるシリーズの大会で基準が安定しなければ、選手や指導者が目指すべき演技の拠って立つ土台が崩れることになる。ジャッジする側は、安定させるためにどこまで努めてきたのか……。それは選手の払う努力に見合うレベルであったのかどうか。

 これまでもフィギュアスケートであげられてきた課題が、あらためて突きつけられる大会となった。宇野の変わらないスケートに対する思いと率直さから発せられた思いは、だからこそ、真摯に受け止められるべきだ。

 また、競技である以上、順位なり得点がつけられ、熱心なフィギュアスケートファンを除けば、どうしてもそれが目に、耳に飛び込んでくる。内容へと目を向けるのはその次となりかねない。

 表現をより追求する姿勢を示して臨んだ今シーズン、NHK杯で宇野がショートプログラム、フリー双方で示したのは、静寂をも思わせる曲のもと、自身の演技によって氷上に、あるいは銀盤をも取り込んだかのような際立った世界であった。今シーズン掲げたテーマとどれだけ誠実に向き合ってきたかをも思わせる。そうした演技の内実が、ともするとクローズアップされない状況が生まれたとするなら、何よりも不幸なことだ。そういう意味でも、採点のありようは今後、より真剣に取り組まれるべきではないか。

 演技終了後の取材で、宇野はこう語ってもいる。

「ほんとうに僕は優しい人たちに恵まれたなと、今日の試合を終わった後に思いました」

FS終了後、ステファン・ランビエールコーチと抱き合う宇野 写真=松尾/アフロスポーツ

 宇野が演技しているとき、自らも演技しているかのような熱を帯びて見守り、そして演じ終えた宇野を称えるコーチのステファン・ランビエールの姿があった。ランビエールに限らず、宇野をサポートする人々の注ぐ愛情と情熱は、NHK杯に限らずいつもさまざまな場面で伝わってくる。 

 見守る人々の喜びこそ宇野の喜びであること、周囲への思いがあって、発せられた一連の言葉でもあったように思えた。