自らのルールで生きようとした少年少女達の抵抗の物語

『歌われなかった海賊へ』
著者:逢坂冬馬
出版社:早川書房
発売日:2023年10月18日
価格:2,090円(税込)

 逢坂冬馬の期待の新作『歌われなかった海賊へ』は、著者が「新しい戦争の語りというものに直面した」と語るアレクシエーヴィチの仕事に、やはり共振して生まれたものかもしれないと思わせる。

 ナチスドイツの時代に、“お国に褒められるいい子”ではなく、自らのルールで生きようとした少年少女達の抵抗の物語だ。

 反ナチ分子として父親が死刑になった天涯孤独のヴェルナー、名高い靴メーカーの子弟レオンハルト、自ら作詞作曲した歌(=文化)が全土に広まりつつある武装親衛隊将校の娘エルフリーデ、爆発物おたくのドクトル。

 彼らを慕った当時11歳、幼いゆえに矛盾した愚かなことばかり言っていたアランベルガーが、90代の独居老人となって、サンドイッチのパンのように具(1944年敗戦間近のドイツ)を包む。

 映画『スタンド・バイ・ミー』を思わせる鉄橋を渡る徒歩旅行(ワンダーフォーゲル)で、鉄路の先に収容所を見つけた彼ら「エーデルヴァイス海賊団」は、連合軍の落とし物=長延期信管の250㎏の爆弾で、収容所へと向かうトンネルと線路を爆破しようとする。

 爆破に成功するのが先か、連合軍によって解放されるのが先か。タイムリミットサスペンスのようでもあるが、そのスリルではなく、戦時下の人の心という不気味なサスペンスが突き刺さる。

 第二次世界大戦を記録したフィルムで、強烈すぎて今でも忘れられないシーンがある。連合軍によって解放された収容所から、骨に皮が巻き付いたような男性達が出てくる。全裸だ。後ろ姿の映像では、小枝よりも細い脚の間から、袋が揺れているのがはっきり見える。それほど肉がなかった。

 そんな男達の列を脇に立って見ていたふくよかな女性が、あまりに酷い人体の極限の姿に泣き出す。「私達は知らなかったのよ!」。その女性の前をすでに通り過ぎていた一人の男性は、首だけ後ろに回して吐き捨てる。「嘘だ」。

 著者は熱量高く書く。「戦争を遂行するとき、人間はその英知を結集する。その知性によって、一体どこまで陰湿で、どこまで残忍なことを思いつくのだろうか」。そして「人間は、自分が無知という名の安全圏に留まるために、どれほどの労力を費やす」ことか。

 しかし、これは本当に第二次世界大戦のドイツだけの話なのだろうか。日本軍について知る事柄のいくつもが、ここに重なる。『戦争は女の顔をしていない』をもじれば、「戦争はどこも同じ顔をしている」。

 対談集の中で逢坂さんは、戦争とは「大ホモソーシャル大会」だと看破している。「同じ顔」になるわけだ。つけ加えれば、ヘイトとLGBTQ攻撃に精を出す人々も、パスポート記載の性別に関わらず、ホモソーシャル界の住人だろう。

『歌われなかった海賊へ』に登場するナチのシェーラー少尉は、嬉々としてのたまう。戦争は人々に帰属を与える。若者の不安は解消され、老人も存在意義を得る。戦争は「人間の本質であり、人間が生み出した大いなる営み」「全ての人間は疎外から解放される」と。

 歴史を思えば、ご高説の通りだと、うなだれるしかない。だからこそ、偽の熱狂と同化してはならない。処世術でしかない無知に逃げてはならない。真の自分を自らの手で疎外しないためにも、心に掲げた反戦の旗は降ろしてはならないと思う。

 最後に『文学キョーダイ!!』の中からこの言葉を。

「『パンとサーカス』という古代ローマの言葉がありますよね。政治的関心を失った民衆には食糧と娯楽さえ与えておけば、支配はたやすいという。いまの日本は国民にパンを与えないけど、サーカスは民営化されている」(逢坂冬馬)

 キョーレツ!! あまりにも“今”で、ノックアウトされたのでした。