10月27日(金)~11月9日(木)は読書週間。本を通じて、芸術の旅を愉しんでみるのはいかがでしょうか。10月のおすすめは、お気に入りの曲を聴きながら読みたい本。ジャズとクラシック、音楽をテーマにした二冊をご紹介します。

選・文=温水ゆかり

写真=フォトライブラリー

フランス20世紀カルチャー史にして、きらびやかな人物伝

『パリの空の下ジャズは流れる』
著者:宇田川悟
出版社:晶文社
発売日:2023年7月
価格: 3,960円(税込)

 合衆国南部生まれのジャズがいかにして大西洋を渡り、フランスで受容され、フランスの音楽、映画、文学、美術などのシーンとどう共振しあったか。

 この『パリの空の下ジャズは流れる』は、フランス20世紀カルチャー史にして、文化の磁場としてのカフェ史、ジャズミュージシャンや文学者達のきらびやかな人物伝でもある。題名は、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が群像劇の手法でパリの男女の24時間を描いた『巴里の空の下セーヌは流れる』(1951年)のもじりだろう。

 合衆国南部はもともとフランスと関係が深い。ナポレオンが売却するまでフランス領だった。ニューオリンズという呼称はヌーヴェル・オルレアン(新オルレアン)から、ニューオリンズを首都としたルイジアナ州(現在のルイジアナ州よりずっと広大な領域を指し、本国の数倍あった)はルイ14世にちなんでのこと。同好の士(酒呑み)のためにつけ加えるなら、バーボン・ウィスキーのバーボンはブルボン(王朝)の英語読みだ。

 新しい文化の定着に力があるのは、理論や概念より、やはり生身の人間や風俗だろう。第一次世界大戦の終盤に参戦した合衆国はフランスに数十万の兵士を送り込んだ。その中には黒人兵士だけで編成された軍楽隊があり、彼らはフランス各地で陽気なデキシーランドジャズを披露する。

 祖国に戻った黒人兵士達の中には、ますますひどくなる本国での人種差別に絶望し、比較的人種差別の少ないパリを目指す者も出てくる。こうしてモンマルトルのカフェやダンスホール、キャバレーなどがジャズミュージシャンやジャズ好きの人々で賑わうようになる。

 萩原朔太郎が「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と夢見る一方で、お坊ちゃま永井荷風(父が高級官僚から日本郵船へ)、アナーキスト大杉栄(案の上投獄されて強制送還に)、売れっ子作家林芙美子(『下駄で歩いた巴里』という題名が芙美子らしい元気さ)らは渡仏し、いずれも1900~1930年代のパリの息吹を書きとどめている。

 

コクトーとヴィアンと二人のジャズ・スター

 パリで20年ほど暮らした経験を持つ著者は書く。二つの対戦をはさむ「1910年代から1950年代までのフランスのジャズの見取り図を大まかに描くと、コクトーとヴィアンという二人の才人をつなぐ線上に(中略)二人の重要人物をおけば、ほぼ完成する」と。

 その二人とは、セントルイス出身の歌手で女優、ジャズエイジ最大のスターで「黒いヴィーナス」という異名をとったジョセフィン・ベーカー(1906~1975年)と、ロマ出身の希代のギタリストで、コクトーに「ギターを持ったピカソ」と評されたジャンゴ・ラインハルト(1910~1953年)である。

 コクトーは早くからジャズ論に手を染め「ジャズバンドこそが野性的な力の精髄と考えるべきだ、それは残忍と憂鬱を歌っているのである」と書いた。一方ヴィアンとは、コクトーよりも31歳下のボリス・ヴィアンのことで、作家、ジャズ・トランペッター、作曲家、音楽ディレクター(ほか、どっさり)の貌を持つ彼は、なかなか興味深い人物である。

 日本でも翻訳されているヴィアンの『墓に唾をかけろ』(1946年)は大スキャンダルを巻き起こした。黒人の脱走兵が書き、ヴィアンが翻訳したという触れ込みで出版した暴力とセックスの復讐譚『墓に唾をかけろ』(10日で書き上げられた)が、実際に起こった情痴殺人事件の現場のベッドの上にあったことから、ヴィアンの戯作であったことが暴かれてしまったのだ。

 デューク・エリントンを崇拝したヴィアンは、サルトルにジャズの奥義を講釈し、ボーヴォワールに『墓に唾をかけろ』以前に書き上げていた小説『うたかたの日々』を読んでもらうなどする“サルトルファミリー”の一員だった。にもかかわらず、「私は実存主義者ではない。なぜなら、実存主義者であれば実存が本質に先立たねばならないが、私にはその本質がないからだ」とうそぶくような洒落者だった。

 ヴィアンは1959年映画化された『墓に唾をかけろ』の試写が始まって数分後に急死。享年三十九。なんとも性急で痛ましい人生ではないか。悲痛をつけ加えるなら、ヴィアンの離婚した妻ミシェルはサルトルのもとに走り、サルトル最期までの愛人だった。

 第二次世界大戦後、ボーヴォワールが米国を訪れ、ジャズと作家について面白い考察をしている。彼女の印象に残ったのは、アメリカの作家はパリの作家より孤立しているということだった。

 作家はどの国であれ孤独のうちに仕事をするものだが、決定的に違うのは仲間が集まる場があるかどうか。パリにはカフェ文化がある。そこでは貧乏は少しも恥ずべきことではなく、ボヘミアンの呑気さと友情でみんなが繋がりあえた。

 しかしニューヨークの作家達にそのような連帯はなく、貧しく孤立している。そして、浴室も冷蔵庫もない貧しい暮らしの中で、ジャズを聴くためのオーディオ装置だけは立派で、文学者が一様に熱烈なジャズファンであることに驚くのだ。

 

「映画との幸福な出会い」がもたらした、仏ジャズシーンの隆盛

 フランスのジャズシーンは、映画との幸福な出会いをもって主役に躍り出た観がある。『死刑台のエレベーター』(1958年)で不穏なトランペットを奏でたマイルス・デイヴィスの衝撃、クラシック出身でジャズに明るいフランス人ミシェル・ルグランが音楽を担当したゴダールの『女と男のいる歩道』(1962年)や、ジャック・ドゥミ監督の『シェルブールの雨傘』(1964年)の親しみやすいメロディ。

 サルトルは「ジャズは黒人大衆のインスピレーションの音楽であり、限られた発展は可能であるが、やがてしずかに衰退する」と予言した。半ば当たっていたような気もする。

 本書の中で比較的初期のマイルスの憤懣が引用されている。要約するとこうだ。レコード会社やクラブ経営者の態度はひどい。白人のスターは王様か女王様のように扱われるが、彼ら白人スターのしていることといったら、黒人音楽から盗んでいいとこ取りをしているだけ。金儲けが大事な連中は、白人のエサになるよう、黒人スターを音楽のプランテーションに閉じ込めている」と。プランテーションという言葉が、奴隷制度を連想させて強烈だ。マイルスの憤懣は、今で言う文化盗用だろうか……。

 バド・パウエル(ピアノ)、デクスター・ゴードン(サックス 1986年に制作&公開された映画『ラウンド・ミッドナイト』では主演を務め、アカデミー主演男優賞の候補に)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、ケニー・クラーク(ドラムス)など、大西洋をわたってパリに定住したジャズミュージシャン達。

 彼らを訪ねたマイルスやセロニアス・モンク、チャーリー・パーカーなどの仲間達を、著者は束ねて「パリ派」と呼びたいと書く。彼らにとってパリは、絶え間ない人種間ストレスから逃れられる安息の地だったのかもしれない。