文=青野賢一 イラストレーション=ソリマチアキラ

 本連載のファラオ・サンダースの回で「第二次世界大戦後の政治、経済、文化に影響を与えた人物の訃報が続いた2022年」と書いたが、それは2023年も止まらないようだ。7月16日、ジェーン・バーキンが亡くなった。76歳だった。俳優、シンガー、作詞家として1960年代から近年まで活躍したジェーン・バーキン。今回は哀悼の意を込めてその足跡を振り返ってみたいと思う。

『ナック』の端役で映画デビュー

 公私にわたるパートナーであったセルジュ・ゲンスブール(1991年没)との関わりから「フランスの人」という印象が強いジェーンだが、イギリス・ロンドン生まれのイギリス人。戦後間もない1946年生まれである。

 最初の映画出演は『ナック』(1965)。『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964)、『ヘルプ! 4人はアイドル』(1965)で知られるリチャード・レスターが監督を務めたこの作品は、戦後のベビーブーマーである若者と大人世代の価値観やライフスタイルの違いが明確になっていた「スウィンギング・ロンドン」の頃の様子を垣間見れるものだ。この映画でのジェーンはいわゆる端役だったが、1990年代にリバイバル上映––––確か渋谷のミニ・シアターだったように思う––––された際には、無名時代のジェーン(とシャーロット・ランプリング、ジャクリーン・ビセット)が出演しているということでも話題になった。

 『ナック』の映画音楽は「007」シリーズの作編曲家として著名なジョン・バリーが手がけているのだが、『ナック』の公開年である1965年にジェーンと結婚する。ジョン・バリーが31、2歳、ジェーンが18歳のときのことである。

 ジョン・バリーとの結婚生活は、ふたりのあいだにのちに写真家として活躍するケイト・バリーが生まれた翌年の1968年に解消され、ジェーンは同年に拠点をフランスへ移す。出演したミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(1966)と主演を務めた『Wonderwall』(1968)––––音楽はジョージ・ハリスンが手がけている––––はフランス移住前に撮影されたものだろう。

フランス移住、セルジュ・ゲンスブールとの出会い

 1968年、フランスに移住したジェーンは映画『スローガン』(1969)のセルジュ・ゲンスブールの相手役のオーディションを受ける。このときのことをジェーンは「私は片言のフランス語でスクリーン・テストに臨んだ。当初この相手役のことを知らなかったセルジュは私に辛くあたった。私生活のこともあって、私が泣き崩れたとき、セルジュは私がカメラの前でもうまく泣けるのではないかと考えた」と記している(2013年3月28日「Jane Birkin sings Serge Gainsbourg “VIA JAPAN”」コンサート・パンフレット)。

 セルジュはブリジット・バルドーと破局したこともあって「私に辛くあたった」のだが、それが期せずしてジェーンを相手役に抜擢することにつながったのである。そして「1969年、セルジュとの神話的なラヴ・ストーリーが始まった」(同前掲)。

 セルジュとジェーンのデュエット曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(1969)はセンシュアルでインモラルなその内容から酷評、好評の両方が巻き起こったが、結果的には大ヒットとなった。『馬鹿者のためのレクイエム セルジュ・ゲンスブール写真集』(アルノー・ヴィヴィアン著、プジョー友子訳、P-Vine BOOKS刊)には、セルジュと出会って以降のジェーンの写真も多数掲載されている。顔立ちに幼さを残した1960年代はチュニックやTシャツ––––白いクルーネックのTシャツは後年まで着こなしに取り入れられており、ジェーンのスタイリングに欠かせないものといえる––––といったこの時代らしいアイテムをやはりさまざまなかたちのものを晩年まで愛用したジーンズ、あるいはミニスカートなどに合わせている写真がほとんど。

 1970年代になると、モード感のあるドレッシーで露出の多いドレス姿も多くなる。総じていえるのは、普段のときも公の場であっても開放的というか、オープンな印象の着こなしであるということ。どこか隙のある感じとでもいえばいいのか、オーセンティックなアイテムでも扇情的なドレスでも、ジェーンが着ると実に「こなれて」恰好よく見えるのである。先に引いた『馬鹿者のためのレクイエム セルジュ・ゲンスブール写真集』には「2人して、当時起きていた性革命を総括し、ブルジョワ的なお行儀の限界を押し広げ、マナーをひとつひとつ無視していった」とあるが、これはふたりの作品、ファッションいずれにも当てはまる指摘といえるだろう。

 1971年、セルジュとのあいだに娘のシャルロットを授かったジェーンは、1973年にファースト・ソロアルバム『ディ・ドゥ・ダー』を発表。リッチなストリングスとカントリー・タッチの乾いたギターが印象的なサウンドにジェーンのウィスパーボイスが重なる良質なこのアルバムには、当然ながらすべての楽曲にセルジュが関わっている。

 セルジュが初監督を務めた1975年の映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』ではバッサリとショートヘアにしてアンドロジナス的な魅力でホモセクシャルのカップルを翻弄するジョニーという役柄を演じた。暴力的な描写や後味の悪さから酷評されることが多かったが、フランソワ・トリュフォーがラジオで絶賛したことで評価が高まった作品である。

 セルジュの没後30年にあたる2021年に4Kレストア無修正版が公開されたのも記憶に新しい。1978年には全曲セルジュが作詞作曲を務めたアルバム『想い出のロックン・ローラー』をリリース。バックの演奏はシンプルなロック寄りの編成となり、ジェーンのボーカルを適切に浮かび上がらせているこの作品には、「Zによる問題集」や「無造作紳士」といった人気曲が収録されている。

セルジュとの別離、そして死

 アルバム・リリースや『ナイル殺人事件』(1978)を含むいくつかの映画出演など、順調にキャリアを重ねた1970年代のジェーンだったが、1980年代に入ると大きな変化があった。1981年には10数年連れ添ったセルジュと別離。映画監督のジャック・ドワイヨンとの生活が始まり、1982年にはルー・ドワイヨンが生まれる。ジャック・ドワイヨンが監督しジェーンが主演を務めた『ラ・ピラート』(1984)はカンヌ国際映画祭に公式出品され、また「第10回セザール賞」の主演女優賞にジェーンがノミネートされた。ジェーンとの別離ののち、セルジュはジェーンのアルバム『バビロンの妖精』(1983)で全篇にわたり歌詞と楽曲を提供(「Baby Lou」は作詞のみ)。以後、ふたりの新たな局面ともいえる関係はセルジュが亡くなる1991年まで続いた。セルジュが手がけた1990年のアルバム『いつわりの愛』は彼の遺作である。

 セルジュの死から数日後にジェーンは父を亡くし、それから数年のあいだは表舞台に姿を表すことがなかったが、周囲の後押しもあり1996年にセルジュの曲を歌うアルバム『追憶のランデヴー』を発表した。このアルバムでは、いわゆるフレンチ・ポップ的なサウンドでなく、室内楽アンサンブルによるクラシカルなアレンジやニューオリンズ風味のスカ、ジャズ、オルタナティブロック、スラブ風と実に多彩なアプローチを展開して、セルジュの曲に新たな息吹を吹き込んだ。2002年にはアラブ諸国のツアーを機にマグレブ出身のミュージシャンとともに、セルジュの曲をアラブ調にアレンジして演奏したライブ・アルバム『アラベスク』をリリース。ワールド・ツアーも行っている。

大成功だったコンサート・ツアー“VIA JAPAN”

 2011年3月11日、東日本大震災。巨大地震と津波、そして原発事故––––こうした惨状を知ったジェーンは震災直後の4月初旬に急遽来日し、街頭募金や被災地訪問、そして復興支援コンサートを行った。渋谷クラブ・クアトロで開催されたこのコンサートのバンド・メンバーは、中島ノブユキ(ピアノ)、金子飛鳥(ヴァイオリン)、栗原務(ドラム)、坂口修一郎(トランペット、トロンボーン)の4名。編曲は中島が担当したのだが、楽曲確定の知らせを中島が受けたのはリハーサル当日の朝で、そこから必死に編曲作業をし、譜面を書いた。

 2011年はセルジュの没後20周年ということで、ジェーンはもともと北米ツアーを予定していたのだが、考えがなかなかまとまらないなかでこの復興支援コンサートがあり、前記のメンバーとの演奏に手応えを感じたジェーンは北米ツアーをこのメンバーでまわることを決意。こうして”VIA JAPAN”と銘打たれたコンサート・ツアーが始まることとなった。

 同年秋のヨーロッパ・ツアーでは中島が単身渡欧し、ヨーロッパを拠点に活動する日本人ミュージシャンで4月と同じ楽器編成のバンドを組織––––そのなかのひとり、ヴァイオリンの山根星子は現在タンジェリン・ドリームの一員として活躍している––––。欧州公演を経て、11月にはふたたびオリジナル・メンバーが集結して東京国際フォーラムで凱旋公演ともいうべきコンサートが実施された。

 東京国際フォーラムののち、オリジナル・バンド・メンバーとともに北米ツアーに出たジェーンは、世界27カ国74回の公演を終えて日本に帰ってきた。2013年3月、アジア・ツアーの皮切りとなる東京オペラシティ コンサートホールでのコンサートである。わたしはこの公演のパンフレットで中島ノブユキのインタビューの執筆を担当したのだが、そこでの中島の言葉を引くと、ジェーンは「飾らない、人間的な魅力に溢れている人」で「そのときに自分が出来ることを精一杯やる、そういうところが魅力」(「Jane Birkin sings Serge Gainsbourg “VIA JAPAN”」コンサート・パンフレット)ということで、実際客席からこのコンサートを観たときにわたしもそれを実感したのだった。

 なお、中島は2013年にNHK大河ドラマ『八重の桜』の音楽を担当し(テーマ曲は坂本龍一)、ジェーンがオーケストラをバックにセルジュのナンバーを歌う『シンフォニック・バーキン&ゲンズブール』(2017)のピアノと編曲を担当。このアルバムに関連して行われたジェーンとオーケストラとの共演コンサートのピアニストと音楽監督も務め、日本でも同年8月、Bunkamura オーチャードホールにて東京フィルハーモニー交響楽団とのコンサート「ジェーン・バーキン ゲンズブール・シンフォニック」が開催された。

アーミーパンツを持ってリハーサル・スタジオへ

 最後に個人的な話を少し。東日本大震災をきっかけに実現の運びとなった前述のコンサートだが、わたしは幸運にもクアトロ、東京国際フォーラム、オペラシティ、オーチャードホールの4公演を観ることができた。会場の規模や編成(オーチャードホールのみオーケストラ)、セットリストなど、それぞれのコンサートに違いはあるものの、どの公演もインティメイトな雰囲気があったのをよく覚えている。

 黒いジャケット、上質な白いシャツ、ジーンズ、オリーブグリーンのアーミーパンツ––––先に述べたようにオープンな印象のスタイリングは晩年も変わらないままだった。あるとき、中島ノブユキさんから彼が履いていたアーミーパンツと同じものをジェーンが欲しいといっていると連絡をもらい、在庫を調べてリハーサル・スタジオに持っていくことになった(そのパンツは当時わたしが勤めていたビームスで扱っていたものだった)。結局それはサイズが合わず購入には至らなかったのだが、間近でジェーンと対面することができたのはよい思い出だ。

 これまで記してきたようにジェーンの活動は1960年代から始まっており、わたしなどは完全に後追い。その印象もどちらかといえば映画のなかの人、ファッション・アイコンという感じで音楽に関しては有名曲しか知らないという程度だったが、2011年のクアトロ公演以降、積極的に彼女の音楽に触れ、改めてシンガーとしての表現力を知るに至ったのだった。こうした体験ができたのは友人でもある中島さんのおかげ。中島さんに感謝しつつ、ジェーン・バーキンを心から追悼したいと思う。