文=青野賢一 イラストレーション=ソリマチアキラ

 2023年1月11日、高橋幸宏さんがお亡くなりになった。まずはご冥福をお祈りするとともに、親族のみなさまへ心よりお悔やみ申し上げたい。本稿では音楽家、ファッション・デザイナーとして活躍された幸宏さんのファッションの部分にボリュームをもたせて展開できればと思う。

プロ・ミュージシャンとして活動を開始した高校時代

 高橋幸宏は1952年6月6日、東京都目黒区大岡山に生まれた。小学校4年の終わり頃からドラムを始め、11歳の誕生日にNegiのドラム・セットを両親からプレゼントされて、中学時代には兄・信之のバンド『ザ・フィンガーズ』のエキストラ・ドラマーとしてプレイすることもあったという。

 小学校の同級生だった東郷昌和(BUZZ)、そして荒井由実(松任谷由実)とともに『ヤング720』というテレビ番組に出演して演奏したり、東郷らとバンド、ブッダズ・ナルシーシーを結成した中学の終わりから立教高校在学時だったが、高校時代には早くもプロ・ミュージシャンとして活動を開始。最初の仕事はピーター・マックスがライブ・ペインティングをするロッテのガムのCM音楽で、ここでは細野晴臣、鈴木茂、東郷とともに演奏を行っている。

 ちなみに高橋と細野との出会いは1968年の夏、軽井沢であるのはよく知られる話。高橋が高校生、細野が大学生のときのことだ。当時の高橋は「丸メガネで、ベルボトムのパンツを穿いて、大岡山の知り合いのテーラーで『マジカル・ミステリー・ツアー』の時にビートルズが着てるペイズリーのシャツをそっくりにつくってもらって、そういうので軽井沢を歩いてましたね(笑)」(青土社刊『ユリイカ』2013年10月臨時増刊号*高橋幸宏「ロングインタビュー 新たなときめきを、いつも––––高橋幸宏のルーツをめぐる旅」)と、ファッションについてもまったくぬかりがない。

自身のブランドをスタートする1970年代はじめ

 ファッションへの関心は小さな頃からあった。なにしろ、小学生でアメリカのテレビ・ドラマに登場する父親がボタンダウン・シャツを着ていることに、お洒落だなぁと感心していたほどである。立教高校から武蔵野美術大学に進んだ高橋は、姉・美恵(伊藤美恵。株式会社WAGの創業者で日本におけるアタッシェ・ドゥ・プレスの草分け的存在)が1970年に始めたブティック/ブランドBUZZ SHOPでメンズ・ブランドBUZZ BROTHERSのデザインを手がけるようになる。

 美恵は花井幸子のブティックで4年間働いたのち独立してBUZZ SHOPを立ち上げたときのことをこう述べている。

「私がすでにファッションの世界にのめりこんでいたからですが、弟たち、とりわけ末弟の幸宏も、私以上のファッション・オタクで、洋服が大好きだったので、他の事業は考えられませんでした」(伊藤美恵著、日経BP社刊『情熱がなければ伝わらない アタッシェ・ドゥ・プレスという仕事』)。

 青山通りの梅窓院の並びにあったこのブティックは人気を博し10年ほど続いたが、のちに高橋のブランドとしてスタートするBricksはここで展開していたBUZZ BROTHERSの発展形とでもいうべきものである。

 1971年にBUZZ BROTHERSをスタートし「そこにトノバンと松山猛が入ってきて、本格的にやろうってことになって、ブリックスっていうのを立ち上げよう、ということになった」(株式会社ビームス刊『IN THE CITY』Vol. 15 高木完「ロックとロールのあいだには、、、」第8回)。 

 Bricksブランド発足について高橋はこう語っている。念のため申し添えておくと「トノバン」とは加藤和彦のことで、松山猛はザ・フォーク・クルセダーズ『帰ってきたヨッパライ』やサディスティック・ミカ・バンド『タイムマシンにおねがい』などの作詞者である。

 1971年、ロンドンを訪れた高橋は加藤和彦と偶然出会い、翌年にサディスティック・ミカ・バンドに参加するのだが、Bricksの設立はその数年後の1974、5年頃。先に引いた高木完のエッセイによれば、Bricksの最初の1年は加藤和彦も大いに関わっていたそうである。

ストリート・カルチャーの沈静化とグラムの登場

 こうしてみると、高橋のファッション・デザイナーとしてのキャリアの最初期は、サディスティック・ミカ・バンドの活動と重なることがわかる。先に述べたように、高橋と加藤は1971年にロンドンで出会っているわけだが、高橋のミカ・バンドへの参加が決まったのち、「ミカ・バンドを本格的に始めるとき、ロンドンの雰囲気をみんなで味わおうとロンドンに行った。ただそれだけのために2、3ヶ月滞在しました」(高橋幸宏著、株式会社PHP研究所刊『心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック』)。

 この頃のロンドン体験は音楽的にもファッション的にも、高橋に影響を与えたであろうことは想像に難くないが、ここで重要なのはこれが1970年代の出来事だということ。1950年代半ばに興ったモッズ・カルチャーは1960年代中頃には沈静化、細分化がみられ、その頃から盛り上がってゆくサイケデリック・ムーブメントは1970年代に入ると落ち着きをみせる。いうなれば1970年代はじめは、それまでのストリート由来のカルチャーが大衆にだいぶ浸透しており、新しいものを求める人々は次の何かを模索するような時期であった。そうしたタイミングで登場するのがグラム・ロック、グラム・ファッションである。

高橋幸宏が足を運んだブティック

 グリッター、アンドロジナス、センシュアルといったイメージで語られるグラム・ロックは、音楽とファッションが不可分であった。音楽的には多様性はあるものの1950年代のロックンロールが参照されることが多かったグラム・ロックにおけるファッションは、現実を遠ざけるようなファンタジックでシアトリカルなものとして捉えておおむね間違いないだろう。こうしたファッションを創出していたのがBIBAやGranny Takes A Trip、あるいはCity Lights Studioといったブティック/ブランドだった。BIBA、Granny Takes A Tripはともに1960年代半ばにオープンし、スウィンギング・ロンドンを体現するファッションを展開しており、City Lights Studioを手掛けたトミー・ロバーツはその前にMr Freedomというブティックを1969年に出店している。ちなみにデヴィッド・ボウイのアルバム『Pin Ups』(1973)の裏ジャケットでボウイが着ているリネン素材のブラウンのスーツはCity Lights Studioのものだ。

 1960年代後半のサイケデリック・ムーブメントにおけるロンドンのファッションの傾向は、アメリカのそれ––––Tシャツ、ジーンズといったカジュアル、自然志向––––とは違って、素材や色柄はサイケデリック調でありながら同時に伝統的な英国テーラリングの持つエレガントさを持ち合わせたもので、前述のブティックもそうした流れのなかにあり、グラムの時代に入っても人気を博した。高橋は渡英時にこうしたブティックをたびたび訪れ買い物をしており、少なからず影響を受けたのだった。

グラム・ファッションのエレガントでレトロな側面

 一般に派手派手しいと思われているグラム・ファッションだが、その派手さは「キャンプ」的なやりすぎ感やあえての時代遅れ感––––いわゆるハリウッド黄金期の映画スターのいでたち––––などからくるもので、また音楽的な意味合いで’50sのロックンロールが参照されていたことから、その頃のミュージシャンのスタイルとも通じるものがあり、この点からグラム・ファッションのなかにはある種のレトロなムードを見出すことができる。

 この頃のBIBAに至ってはアール・デコを打ち出しており、それがアール・デコ・リバイバルにもつながったという。そんな動向をブティックを訪れたり古着を買うなどして的確に察知した高橋はBricksの立ち上げにおいて、「1950年代の普通の人のファッション」を目指したという。

 かくして、グラム・ファッションの根底にあるエッセンスと、パリのモードのエレガンスや往年のハリウッド映画のスタイルが東京でミックスされた。思えばその後に高橋が手がけるBricks MonoやYUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTIONにも、時代による味つけはあるにせよ、そうした要素は見てとることができるのではないだろうか。

ミカ・バンド時代から変わらないドライブ感

 音楽的にはミカ・バンドはいわゆるロックの範疇ではあるものの、個々の楽曲は非常にバリエーションに富んでおり、当然ながら各楽器の演奏もそれに準じて振れ幅がある。高橋のドラムも正調ロックンロールからファンクネスほとばしるプレイまでさまざまだが、いずれもバス・ドラムの音のスピード感(走るという意味でなく、音の体感速度としての速さ)、シンプルだが巧みなハイハット・ワーク、そしてシグネチャーとでもいうべきジャスト&タイトなスネアを軸に楽曲を見事にドライブさせている。こうした特徴は後年まで変わることがなく、氏のトレードマークとなった。

 ミカ・バンド解散後のサディスティックス時代までのファンキーな曲でのプレイは一聴すると手数が多いようにも思われるが、演奏スタイル自体は非常にシステマティックであり、聴く者に「反復の快楽」を味わわせてくれる。そうしたファンキーかつ計算し尽くされたドラムは、イエロー・マジック・オーケストラ(以下、YMO)のファースト・アルバムに収録のエレクトリック・サーフ・チューン『Cosmic Surfin’』でも聴くことができる。クリック(曲のテンポのガイド)を導入––––クリックを使った最初の曲は『サラヴァ!』に収録の『Elastic Dummy』だそうだ––––して以降は、よりシンプルで研ぎ澄まされたビートを奏で、オリジナルな「幸宏スタイル」を確立。多くの音楽家に多大な影響を与えた。

1970年代の着こなしはグラムからシティへ

 さて、ふたたびファッションに話を戻して、今度は高橋自身の着こなしに触れてゆこう。小学生のとき、アメリカのテレビ・ドラマに感化されたり、ビートルズの真似をしてサイケデリックに傾倒したことは先に記したが、ミカ・バンドの頃はどうだったかといえば、スカーフ使いが印象的だ。グラム・ファッションに影響を受けつつもどこか品のあるスタイリングなのは、パリのモードやフランス映画に触れていたせいもあるかもしれない。

 アルバム『HOT! MENU』のジャケットで着ているのはKENZOのジャンプ・スーツで首元にはやはりスカーフ。1977年に日比谷野外音楽堂で坂本龍一と初めて出会ったときもこのジャンプ・スーツに白い大判のスカーフを巻いていて、その姿を見た坂本が「なんだこいつは」と思ったというのは有名な話だ。

 ファッションの情報源は、現地で見聞きしたもののほか、イギリス版とイタリア版の『VOGUE』、『L’UOMO VOGUE』といった洋雑誌。高橋がスタイリングした『千のナイフ』のカバーで坂本龍一が着ているジャケットはGIORGIO ARMANIだが、アルマーニの存在を知ったのも『L’UOMO VOGUE』だったという。サディスティックス時代はグラムの波は去っており、この頃の高橋はテーラード・スーツを軽快かつ洒脱に着こなすシティ感のあるスタイリングが印象的だ。

晩年までずっとエレガントで端正な装い

 ソロ・デビュー作『サラヴァ!』(1978)のアルバム・カバーでは、タキシード––––YMOの最初期の衣装はこのBricksのタキシードだ––––をまとい洒落のめした。ポスト・パンク、ニューウェーブがシーンを席巻していたYMO結成から散開までの期間は、高橋のファッションもそうした流れを反映していたように思う。

 とはいえ、奇抜なデザインやフォルムの服でなくジャケットやスーツをスタイリングで尖ったムードにまとめたり、スポーティないでたちではどこか’50s風な匂いを加えたりと、それまでの氏のファッションと地続きの印象で実に恰好よかった。蛇足ながら、私のファッションのルーツのひとつは、この頃の氏の着こなしである。

 YMO散開後は、自身のブランドのほか、コレクションの音楽を担当したりモデルとしてランウェイにも登場したYohji Yamamoto、1990年代に入るとPRADAを着ていたイメージが強い。当時のファッションを振り返って、高橋はこう述べている。

「プラダで助かったよね。そこでミラノが一気に来て、フィレンツェ、ミラノあたりのショーにみんな行くようになった。それからエディ・スリマンが登場してまたちょっとパリコレが盛り上がったりして。クリス・ヴァン・アッシュとかドリス・ヴァン・ノッテンも好きだね」(前掲『ユリイカ』2013年10月臨時増刊号)。

 21世紀になるとTHOM BROWNEに傾倒しつつ、同時にPRADAやLANVIN、ときにはALEXANDER McQUEENなども着用。エレガントで端正な装いをずっと貫いた。

優しさとユーモアと音楽愛、ファッション愛

 まだまだ記しておきたいことはたくさんあるのだが、そうするといつまでも終わらないので、最後に少しだけ自分語りをさせてもらって本稿を締めくくろうと思う。私的なことなのでここから呼称がふたたび「幸宏さん」となるのをお許しいただきたい。

 わたしがYMOを知ったのは1979年で本格的にのめり込んだのは1980年、小学6年生のときだ。音楽そのものはもちろん、見たことのない機材やファッションに衝撃を受けた。なかでも幸宏さんのドラムといでたちに痺れ、もともと好きだったファッションにさらに拍車がかかり、同時にドラムをやろうと決意したのだった。

 初めてお会いしたのは2000年の春、ある花見の会のときのこと。はじめましての挨拶をしたところ「あ、青野くん。青木くんから聞いてたよ」。「青木くん」とは東京スカパラダイスオーケストラのドラマーだった青木達之さんのこと。青木さんが生前幸宏さんにわたしのことを話してくれていたのだ。その日からずっと仲良くしていただいた。

 食事に行ったり飲みに行ったりというプライベートな時間のほか、本稿でも引用した『ユリイカ』の幸宏さん特集や、結果的に最後のソロ・コンサートとなってしまった2019年の新宿文化センター公演のパンフレットの原稿執筆、そして2022年に音楽活動50周年を記念して出版された書籍『LOVE TOGETHER YUKIHIRO TAKAHASHI 50TH ANNIVERSARY』(KADOKAWA)のお手伝いなど、幸宏さんに関する仕事ができたのは幸せなことだ。優しさ、ユーモア、そして音楽とファッションへの愛情––––プライベートであれ仕事であれ、幸宏さんから伺った話にはこれらがたっぷり詰まっていた。

 幸宏さん、本当にありがとうございました。どうかゆっくり休んでください。