文=青野賢一 イラストレーション=ソリマチアキラ
さる3月28日、音楽家の坂本龍一さんが逝去された。享年71。1月に高橋幸宏さんが亡くなられ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の3人のうち2人がこの世からいなくなってしまい、YMOをきっかけに音楽やファッションに能動的にのめり込んでいった自分にとって2023年の上半期はとても悲しいものとして記憶されることとなった。
デビュー・アルバム『千のナイフ』前後
わたしが坂本龍一の存在を知ったのはYMOを通じてであった。1979年、1980年あたりのことである。たくさんのシンセサイザーから繰り出される聴いたことのない音に心躍らせ、それを操る「教授」の昏く鋭いまなざしを格好よく思ったものだ。最初に買った氏のレコードは『千のナイフ』(1978)。収録曲の「Thousand Knives」と「The End Of Asia」がYMOのライブのレパートリーになっていたからだ。
このアルバムのカバー写真のスタイリングを高橋幸宏が担当しているのはよく知られているところ。〈GIORGIO ARMANI〉のジャケットに〈LEVI’S〉のブルージーンズ、足元にはマノロ・ブラニクがデザインしたスウェードのフル・ブローグと、実に洒脱なファッションに身を包んでいる。このジャケット写真のイメージは、当時わたしが抱いていたYMOのファッショナブルな印象と重なるものであるが、封入されているライナー・ノーツに使われている坂本龍一の写真を見てたいそう驚いてしまった。
長髪なのだ。ゾロッとした長い髪をセンターで分けた、いかにも70年代といった雰囲気の坂本龍一の姿にわたしはかなりのギャップを感じたものだが、以前から氏のことを知っていた人にしてみれば、YMO参加からの長髪でないスタイリッシュな坂本龍一に驚いたにちがいない。『千のナイフ』以前の坂本龍一は冬でもゴム草履で、すり切れて履けなくなったら新しいゴム草履を買うというような無頓着ぶりだったそう。そんなところと長髪も相まってむさくるしい外見だったことから、水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公のそれと重ねて「あぶ」と呼ばれていたのである。
新しい映画、音楽、人との出会い
『千のナイフ』は坂本龍一のファースト・ソロ・アルバムだが、そこに至るまでの道のりを記しておくと、生まれは1952年東京。父は三島由紀夫や埴谷雄高らを担当した編集者の坂本一亀、母は帽子デザイナーだったそうである。3歳でピアノを弾き、幼稚園の課題で最初のオリジナル曲を作った。
1967年、都立新宿高校入学。「それまでの文化や体制が壊れていく時代だったからものすごく面白くて、演劇も新しいものが出てきたでしょ? あと、ゴダールとかトリュフォー、パゾリーニとか、出来たての映画が新宿にも来てて。高校生にはちょっと高かったけど、それを一生懸命に見にいってた」(高橋幸宏著、KADOKAWA刊『LOVE TOGETHER YUKIHIRO TAKAHASHI 50TH ANNIVERSARY』所収、高橋幸宏と坂本龍一の対談内の坂本の発言)。
同じ頃、ジャズ喫茶めぐりを開始し、そこでたまにかかる現代音楽のレコードを通じて、テリー・ライリーやフィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒらの作品に触れたという。1970年、東京藝術大学音楽学部作曲科に入学。民族音楽と電子音楽への興味を高め、1974年には同大大学院音楽研究科作曲専門課程に進む。フォーク、ポップス、ジャズ、ロックなどのミュージシャンと交流を持つようになった院生時代には、そうしたミュージシャンたちのライブや録音に演奏家やアレンジャーとして参加する機会が増えたと同時にアヴァンギャルドな即興演奏を行ったり、ラジオ・ドラマの劇伴、CM音楽などを手がけるようにも。
1977年に大学院を修了するまでの期間で、大滝詠一、山下達郎、大貫妙子、そして細野晴臣らと演奏を行ったりアレンジを提供したりして関わりを持った。高橋幸宏と知り合うのもこの頃である。
1978年、YMO結成の頃
1978年リリースの『千のナイフ』のスタジオ録音は同年7月までだったが、2月には細野のソロ作『はらいそ』(1978)の「ファム・ファタール~妖婦」の録音に高橋とともに参加。その直後に坂本、高橋に細野がYMOの構想を伝え参加を請う。有名な「コタツみかん」のエピソードである。3月には高橋のソロ・デビュー作『サラヴァ!』(1978)に参加。これにはミュージシャンとしてだけでなく、コ・プロデューサー、アレンジャーとしても携わった。
レコーディングは「教授とベッタリだね、本当に。終わったら毎晩飲んで、『今日のオケは良かったよね』『今日の幸宏のドラム良かった』とかっていうのを、シネマクラブでだいたい朝4時、5時まで飲んで」(同前掲、高橋の発言)。そして7月、YMOのファースト・アルバムのレコーディングがスタートし、11月に『イエロー・マジック・オーケストラ』というタイトルで発売となった。
『千のナイフ』でいでたちが大きく変わった坂本だが、その後も「あぶ」に戻ることはなかった。この当時の坂本の雰囲気は渡辺香津美とのセッション・ユニット「KYLYN(キリン)」のアルバムのインサートや坂本龍一&カクトウギ・セッション名義でリリースした『サマー・ナーヴス』のインナー・スリーヴで確認することができる。
カルチャー・アイコンとしての坂本龍一
YMOが散開する1983年までのあいだ、「東風」(『イエロー・マジック・オーケストラ』)、のちにマイケル・ジャクソンがカバーを熱望した「Behind The Mask」(『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』)、「Music Plans」(『BGM』)、「京城音楽」(『テクノデリック』)、「音楽」(『浮気なぼくら』)、後年のピアノ・ソロでも何度となく演奏されることとなる「Perspective」(『サーヴィス』)といった楽曲をYMO名義で発表しつつ、デニス・ボーヴェルやアンディ・パートリッジを迎えた傑作エレクトリック・ダブ作品『B-2 UNIT』(1980)、アコースティック楽器と自身のボーカルを大幅に取り入れた『左うでの夢』(1981)をソロ・アルバムとしてリリース。また大島渚の『戦場のメリークリスマス』(1983)にデイヴィッド・ボウイ、ビートたけしらと並んで出演し、映画音楽も手がけた。
YMOという巨大な存在––––当時のYMOは社会現象と呼ぶべきものになっており、メンバー本人らがそれに疲弊していたというのはよく知られるところだ––––から解放された1984年には、現在まで名作と語りつがれる『音楽図鑑』を発表している。
この頃から坂本は音楽家という枠組みを超えた「カルチャー・アイコン」と呼びたくなる越境的な活動が顕著になってくる。韓国の美術家、ナム・ジュン・パイクと親交を深めたのを筆頭に、当時最先端だったビデオ・インスタレーションに接近するなど、現代美術との関わりを強くしたり、「本本堂」という出版社を立ち上げて音楽、哲学、文芸がリンクするような書籍の出版も行った。
浅田彰、中沢新一ら「ニュー・アカデミズム」と呼ばれた人々との交流が目立ってくるのもこのあたりからである。また、アメリカの舞踏家、モリサ・フェンレイが主宰する前衛的ダンス・カンパニーの日本公演《ESPERANTO》のために書き下ろした楽曲をまとめたアルバム『エスペラント』(1985)のリリースも、この時代の坂本の関心のひとつの所在を示しているのではないだろうか(学生の頃には演劇のための音楽をすでに作曲していたので、突発的にこうした方向にシフトしたわけではないことは申し添えておきたい)。
前述した1980年代中盤、わたしは高校生だったが、氏のこうした活動が入り口となってさまざまな分野への興味が高まっていった。坂本は1981年から1986年までNHK FMの「サウンドストリート」という番組の火曜日のパーソナリティーを担当しており、そこでオンエアされて初めて知った曲やアーティストは数知れずだったのだが、それと同じような感覚で現代思想や美術、演劇への扉を開いてくれたわけである。
高校生ということで、文献を読んだりすればある程度は理解ができたというのも大きく、たとえばアルバム『未来派野郎』(1986)からイタリアの芸術運動「未来派」を知り、その潮流からダダやキュビズムに興味を広げ、また澁澤龍彦らの影響からかねてより関心のあったシュルレアリスムとの接点を改めて見出すといった具合だった。
ちなみに『未来派野郎』は未来派の重要要素である機械、あるいはスピードの象徴としての自動車のサンプリング音などがふんだんに取り入れられているが、同作リリース後の全国ツアー「Media Bahn Tour」では、この時代らしいたっぷりとしたジャケット&トラウザーズ、インナーは白いタンクトップといういでたち––––ときにはジャケットを脱いでタンクトップだけになって––––で肉体をスピード感たっぷりに使った汗だくのパフォーマンスを披露している。
音楽的発展と“Back To The Basic”
ガムランや沖縄音楽を大幅に取り入れた『NEO GEO』(1987)、ブライアン・ウィルソン、ロバート・ワイアット、アート・リンゼイ、ユッスー・ンドゥールなどが参加した教授流ワールド・ミュージック集『Beauty』(1989)というオリジナル・アルバムのほか、坂本が俳優として甘粕正彦を演じたベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(1987)の映画音楽でゴールデン・グローブ賞作曲賞やアカデミー賞音楽賞を受賞し、それまで以上に世界から注目を集めるようになった1980年代後半を経て、1990年にはアメリカ・ニューヨークへ移住した坂本。
バルセロナ・オリンピックの開会式のための楽曲を手がけ、タクトを振った1992年、バツ印をつけたかたちで限定的に再結成されたYMOのアルバム『テクノドン』リリースと武道館公演の1993年というように90年代の前半は話題性の高いトピックスが多かったが、1996年には以降の活動のひとつの柱となるピアノを軸としたアルバム『1996』をアントニオ・カルロス・ジョビンとも共演したチェリストのジャキス・モレレンバウム、ヴァイオリニストのエバートン・ネルソンとのトリオで制作。
1998年には『BTTB』(“Back To The Basic”の意)と題したピアノ・ソロ作品––––オーソドックスな奏法だけでなくプリペアド・ピアノを用いた曲や口琴を使った曲も含まれている––––を発表した。このアルバムはのちに「ポスト・クラシカル」という括りで称されるような音楽家たちにも多大な影響を与えたのではないだろうか。
2000年代に入ると、ジャキス・モレレンバウムとその妻でシンガーのパウラ・モレレンバウムとのユニット「Morelenbaum 2 / Sakamoto」名義でアントニオ・カルロス・ジョビンの曲をカバーしたアルバム『Casa』(2001)をリリース。この作品で坂本はリオにあるジョビンの家のピアノを演奏している。
また、アルヴァ・ノトことカールステン・ニコライやクリスチャン・フェネスとのコラボレーションがスタートするのも2000年代前半であるが、この頃のトピックスはなんといっても細野晴臣と高橋幸宏の「スケッチ・ショウ」への楽曲提供や演奏参加だろう。この再会が「HAS」、「HASYMO」、そしてイエロー・マジック・オーケストラの復活に連なっている。
そして、音楽活動に加えて地雷ゼロ・キャンペーン(このテーマ曲が「Zero Landmine」)や9.11を受けて出版された『非戦』、脱原発、核廃絶への取り組みと「More Trees」の発足など、社会活動の面でも精力的にアクションを起こし、そうした活動は亡くなるまで継続されることとなった。
活動を通じてさまざまなことを教えてくれた「教授」
最後のオリジナル・アルバム『12』がリリースされたのは2023年1月17日。坂本さんの71歳の誕生日である。1月11日に幸宏さんがこの世を去ってから、わたしは音楽を聴く気力をなくしていたのだが、この『12』だけはなぜだか自然と「聴こう」と思い、再生できた。そしてその音がこれまた自然に心に入ってきたのをよく覚えている。
先に記したように、音楽はもちろん、80年代には現代思想や美術などを、近年では「非戦」やエネルギー問題、環境問題へ意識を向けることとそれらをなんらかの「声」にしてゆくことをわたしたちに伝えてくれた坂本龍一さん。その音楽と意志を忘れることはないだろう。どうかゆっくり休んでください。