「1つは恩師ですね。僕は石原美和先生に小学校のときに出会って、引退するまで一度もメインの先生をかえませんでした。これは相当珍しいことです。まずは単純に石原先生のもとでコーチとしてお返しがしたかった。そしてやっぱり福岡という環境があったから僕が育ったので福岡のフィギュア界を盛り上げたい、強くしたいと思いました。あとはフィギュアスケート界へのお返しですね」
いざ指導者としてスタートを切ったが、その途中で指導のあり方を見直すことになった。
「最初は選手の背中を押すところから、ときにはお尻を叩いて引っ張っていくとかそういうこともやろうとしました。厳しく教える時期があったんです。でも選手の成績は伸びなかった。そもそも悪い言い方をすると、基本的に人に厳しくできないのですね。成績が伸びるわけでもなく、だったら厳しくする必要はないんじゃないかと思いました」
同時に痛感したのは勉強不足であることだった。
「例えばコーチになるにあたって学校の先生みたいに教育自習があるわけではありません。人を教えるということの情報や知識や経験がないのはまずいなと思って、フィギュアスケートとは関係ないスポーツ指導という部分でのセミナーに1年間通って指導者としてのスキルを上げることを心がけました。2年目から3年目にさしかかる頃までやって、その過程でたまたま福岡県のコーチを育成しようというプロジェクトに推薦していただいて約3年間、学びました。
当初は8競技団体、8名でしたが、これが大きかったですね。それまでフィギュアスケートでしか生きてきていない、限られた空間の中でしか自分自身を見てこなかった。いろいろなスポーツの人と、しかも年代が全然違う方々と知り合って、言い方はちょっと変ですけど、僕としては社会に出た感じがしました」
スポーツ界の固定観念を壊さないといけない
学びつつ、さまざまな場に立つ人々と交流する中で感じたことがあった。
「今までのスポーツ界の『あるある』みたいな固定観念を壊さないといけないなって思いました。例えば、それこそ厳しくやらないと選手は育たない、みたいなことです」
厳しく指導しても選手は伸びなかった。自身の性格もある。それらが関連し重なりながら、指導者としての方向が固まっていった。
「自分の感情に任せて指導してしまう人というのは、子どもが憎いからではなく、選択肢がないからだと思うんです。特に昭和の時代、ひとくくりにするのはよくないですし、素晴らしい指導者もたくさんいらっしゃいましたが、やっぱり現場では手が出たりする話や雰囲気がしばしばありました。そういう時代背景で育って指導者になって、自分が経験した以外の指導方法がない、学びをしていなければどうしても自分がされたことしか方法がなくなってくる。学んでいけば自分の経験に頼らなくていいということに気づけた時間でもあったと思います」
楽しく、明るく、子どもたちが納得をしてくれれば子どもたち自らが動き出す。フィギュアスケートというスポーツに価値を見出す。そこに重きを置いたという中庭はコーチとして成果を残していった。そのとき、転機が訪れた。(続く)
中庭健介(なかにわけんすけ)生まれ育った福岡市でスケートを続け、全日本選手権に12度出場し3度表彰台に上がったほか四大陸選手権やグランプリシリーズなどに出場。息長く現役生活を続け、2011年に引退しコーチに。2021年より千葉県船橋市でスタートしたMFフィギュアスケートアカデミーのヘッドコーチに就任。