今、日本企業は生産性に対する意識の次元を変えるべき時期に来ていると感じている。「意識の次元」というと漠然としているが、これまでの考えで生産性を向上させても、従業員の福利厚生や幸福度は向上しないのではないかという問題意識を持っている。
なぜこのような問題意識を持つに至ったのか、私のコンサルタントとしての経験を振り返りながら述べていこう。
日本の生産性の歴史(バブルの崩壊から耐え忍ぶ時期の到来まで)
(1)バブルの崩壊時期(1990年ごろ~)
私が日本能率協会コンサルティングに入社し、コンサルタントとしての活動を開始したのは、まさにバブル崩壊寸前の1990年であった。
当時、私は製造業を主なクライアントとする部門のコンサルタントとなり、日々、製造現場の生産性向上活動に取り組んでいた。当時の日本企業はそれまで続いてきた成長・発展のフェーズから、いわゆる「事業のリストラクチュアリング」へと方向転換せざるを得ないフェーズに直面していた。
クライアントが抱える問題は、バブル時代に膨れ上がった余剰な生産財、労働力の扱いであった。「生産性向上」というスローガンの下で行われた経営改革とは、事業からの撤退、海外移転、人員削減などが主である。従業員を解雇することの代名詞として「リストラ」という言葉が生まれたのもこの時期だ。この時期の生産性向上活動の目的は、経営陣にとっては「企業の生き残りと継続」であり、従業員からすれば「職の確保」であったともいえる。
(2)QCDを追求した時期(2000年ごろ~)
バブル崩壊の危機を乗り越えた企業の競争が激化し始め、企業はいかに自社の「競合優位性」を生み出すかということが必須となってきた時期であった。消費者が企業に求めることは、良いものを(Q)、より安く(C)、より早く(D)提供することだ。
製造業ではISO認定取得、QCサークル活動、TPM活動、BPR活動など、さまざまなマネジメント手法が取り入れられ、現場は一丸となって生産性向上に取り組んだ。その目的はQCDを向上させ、自社製品やサービスの品質を向上させ、競争力を強化させることにあった。多くの企業が「トヨタ生産方式」に学び、リーンな生産システムを追求し、技術的な生産性向上活動やマネジメント手法の改革に取り組んだのである。しかし、これらの企業努力をもってしても、さらなる苦境が待ち受けていた。それが「リーマンショック」と「東日本大震災」であった。
(3)耐え忍び続ける時期(2010年ごろ~)
競争力強化を目的として取り組んできた企業の経営革新活動は、徐々にマネジメントの仕組みとして定着してきた。しかし、リーマンショックが日本企業に与えた影響は深刻で、さらにこれに追い打ちをかけるように、2011年に「東日本大震災」が発生した。しかし、これらの大きな環境の変化によって引き起こされた問題は、もはや企業のマネジメントレベルで解決することは難しく、事業再編や経営レベルでのソリューションが企業の存続を大きく左右したのである。