編集者人生で出会ったカッコいい人
──新谷さんは長年の編集者生活の中で、本当に様々な人に出会い、取材をしてきたと思いますが、その中で出会ったカッコいい人、カッコ悪い人について教えてください。
新谷:実際に会った中でいうと、ウディ・アレンですよね。
──え、会ったんですか?
新谷:さっき言った卒業買い付け旅行で、N.Y.に行ったときに会えたんですよ! 彼があの頃毎週月曜の夜に演奏していたミッドタウンの「マイケルズ・パブ」に行ったら、本当にクラリネットを吹いていましたね。で、休憩時間にトイレの前で張り込んでいたところ、そこに来たんです。「日本からあなたに会いに来たんです!」なんて言ったら、「オー・サンキュー」って(笑)。そのときのウディ・アレンの格好は今でも目に焼き付けています。白のオックスフォードシャツに、映画ではいていたようなチノパン、ブラウンのコンビのサドルシューズ。これぞウディ・アレンだなって感じでしたね。
洋服って、きれいに着るのが上手い人と、味を出して着るのが上手い人、2通りいるじゃないですか。たとえば〝ユニクロ〟に行った元「ポパイ」の木下孝浩さんはまさに前者で、小津映画みたいに端正な着こなしなんです。でも私はそういうのは絶対に無理で、見る人が見れば味が出てるくらいが自分には合ってるな、と思っているんです。そういう意味でウディ・アレンの味の出し方は本当にカッコいいですね。
──それはうらやましい限りです。
新谷:あと、私が1989年に『スポーツ・グラフィック・ナンバー』に配属されたときに、編集長をやっていた設楽敦生さん。もう亡くなってしまいましたが、あの人は本当に素敵でした。文春史上一番輝いていましたし、今でも憧れですね。
──どんな人だったんですか?
新谷:冒険家で、植村直己さんと一緒に犬ぞりの旅に出かけちゃうような人なんです。逗子に住んでいたのですが、朝起きると海でワカメをいっぱい採ってきて、それにかつお節や醤油をかけて、夕方会社に持ってくる。で、「おーい、みんな食え!」って(笑)。当時の編集部の冷蔵庫の中にはビールが大量にストックしてあったので、いきなり酒盛りです。みんなで朝までビールを飲みながら、どうすれば『ナンバー』はもっと面白くなるんだ、カッコよくなるんだ、と議論して、酔っ払ってくると殴り合いのケンカになったり、すごい状況の中であの頃『ナンバー』はつくられていました。本当に熱かったですよ。
そういえば入社3年目の頃に「ホームラン」特集をつくりたくて設楽さんに直談判したら、まだまだ下っ端だった私にデスクを任せてくれたこともありました。そのときはホームランといえばバズーカ砲だろう、ということで、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の早朝バズーカをつくっている鉄工所を探し当てて(笑)、風呂敷に包んでラルフ・ブライアント(近鉄バファローズ)のところに持って行ったんです。ブライアントも大興奮して、ユニフォーム姿でバズーカ砲をかついでいるめちゃくちゃカッコいいビジュアルを表紙にできました。『ナンバー』の原点には、この頃の熱さがあるんですよね。
そういう編集部のムードをつくってくれて、「俺が責任を取るから好きにやっていい」と言ってくれた設楽さんのことを、本当にカッコいいな、大好きだなって思っていたのですが、若くして癌で亡くなってしまったんです。あのときは本当に号泣しましたが、2017年に出版した自分の本(『「週刊文春」編集長の仕事術』/ダイヤモンド社)で設楽さんのことを書いたら、ご親族からお手紙をいただいたんです。もう嬉しくって懐かしくって、印税をぶち込んで新宿のでっかい居酒屋の宴会場を借り切って「設楽敦生を語る会」を開催しました。当時の『ナンバー』編集部員や設楽さんのご親族を集めて、もう朝までどんちゃん騒ぎ。楽しかったな。
──今の『週刊文春』にも、そういう空気感はあるんですか?
新谷:私の周りにはあると信じていますけど。
もうひとりこの人カッコいいな、と思った先輩が、私がこの会社に入った頃に『週刊文春』の編集長としてスクープを連発していた花田紀凱さん。最近では安倍政権への評価をめぐり口論になりますが(笑)、当時は燦然と輝いていて、すごくカッコよかったんです。『マルコポーロ』が廃刊になった例の事件のときだって、花田さんはイスラエル大使館からの抗議を載せればまた売れるだろうという、超ポジティブシンキングでした(笑)。最後は自分が責任を負うからと、イケイケどんどんで突き進んでいくという彼のやり方には、かなり影響を受けましたね。私はその後の2015年に、現役編集長にして休職処分を受けるという前代未聞の事態に見舞われるのですが、そのときに真っ先に思い浮かんだのは花田さんのことでした。一緒に昼飯を食べながら「やっぱり出る杭は打たれるんですかね」とこぼしたら「何言ってるんだ新谷、突き抜ければ打てないんだよ」って言われて(笑)。このポジティブな一言にとても救われたし、俺の突き抜け方はまだ足りなかったんだ、とも思いました。
そして2016年に復職してからは、もうフルスイングの連発です。ベッキー、甘利明と完売連発で復活を遂げるわけです。
メディアとして筋を通すこと
──どんなに親しくしている政治家や芸能人だろうと、忖度せずに刺すときは刺す。新谷さんはおそらくすごい修羅場をくぐっていると思いますが、そんな勇気こそが、今の『週刊文春』が支持される理由ではないでしょうか?
新谷:さっきも言ったように、絶対に守らなければいけない軸をブラさないことが大事だと思っています。私はよく〝親しき仲にもスキャンダル〟と言いますが、『週刊文春』に関しては、相手がいかに強かろうが、いかに人間関係がぶっ壊れようが、伝えるものは伝える。仲のいい政治家に「何とかならないか」と言われることもありますが、何ともならないんですよね、それは。
──また仲直りすることもあるんですか?
新谷:私の人間関係は、一度壊れて修復して、また壊れての繰り返しです。一度壊れたからって心では敵味方とは思わないし、それぞれが自分の仕事に誇りを持って臨んだ結果ぶつかっただけのこと。人間的に嫌いになったわけじゃありません。こちらはそういう気持ちですから、度量というか懐の深さを持っている人とは修復できることもありますよね。
よく『週刊文春』の記者にとって大切な資質ってなんですか?と聞かれるのですが、一番大事なのは愛嬌です。そして図々しさ、真面目さ、誠実さ、嘘をつかないこと。結局はそういうことしかありませんね。
──手越祐也さんや渡部 建さんのように、〝自分を刺した〟『週刊文春』に自ら登場する方が多いのは、そういった新谷イズムが浸透している証拠なんでしょうか?
新谷:私たちはスクープをしても、その人の生き方や作品そのものを否定しているわけではないんです。でもそれがなかなか伝わらない世の中で、ネットメディアやワイドショーは、水に落ちた相手を安全地帯から叩きまくる。私はそういうのは大嫌いで、むしろその人たちの名誉回復につながることをしたいと思うくらいです。だから「ビームス」とコラボレートでムック(※2019年に発売した『BEAMS ×週刊文春 FASHION is SCANDAL!!』。川谷絵音さんや原田龍二さんなど、かつてのスクープの主役たちがモデルとして登場している)をつくったときは、斉藤由貴さんに出演交渉をしたのですが、残念ながらけんもほろろでした。そういえばショーン・Kさんも出てくれなかったな。〝ビームスF〟とか、似合うだろうな。
──意外にも、義理と人情の世界なんですね。
新谷:義理人情といえば、菅原文太さんもカッコいい人でした。実は私『仁義なき戦い』が本当に大好きで、『週刊文春』のデスク会議なんて、もう半分くらいこの映画のセリフで成り立っちゃうくらい(笑)。
──文春砲の第二弾とは「まだ弾は残っとるがよう」だったんですね!
新谷:私が『文藝春秋』にいたときに、文太さんが膀胱がんになったというニュースを見て、すぐご本人にインタビューを申し込んだんです。人生観や死生観の変化などを含めてお話を伺いたいとオファーしたところ、「がんごときで俺の人生観が変わってたまるか!」といきなり怒られました。それでも粘り強く説得したら、自分とふたりの主治医との鼎談という形で、治療や回復の様子を語るのであれば、同じ病気で悩んでいる人にとっても意義のあることだから、と出てくれました。その筋の通し方、世の中に発信することに対しての責任感が本当にカッコよかったですね。
その後お礼を兼ねて文太さんご夫婦をご飯にお誘いしたのですが、奥様から「料亭みたいなところはイヤ。安くておいしいところなら行く」と、難しい注文をつけられたんです。そこで私が大好きな西麻布のきりたんぽ屋にお連れしたら、ふたりともすごく気に入って、亡くなる直前までご夫婦で通ってくれました。そのとき文太さんは、ヘリンボーンツイードのジャケットの上に黒いダウンベストを着ていましたね。本当に渋かったなあ。
──こういうお仕事をされていると、文太さんのようなカッコいい人がいる一方で、今までカッコいいと思われていた人のカッコ悪さに気づいてがっかりすることもあるのでは?
新谷:それはありますけど、嫌いになるかというと、また違うんです。むしろそういうカッコ悪さ、愚かさ、浅ましさもひっくるめて人間って面白いですよね。以前立川談春さんから「俺の師匠の立川談志は、落語とは人間の業の肯定だと言っていた」と伺ったのですが、これこそまさに俺の目指す週刊文春だと感じて、意気投合したんです。その業をひっくるめて人間を面白がったり、愛したりするべきなんじゃないのって。