「盛和塾」世界大会で講話する稲盛和夫写真提供:京セラ(以下同)
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。
稲盛氏は、京セラ、KDDI、日本航空と、経営の第一線を退くたびに、後継者が安心してかじを取れるよう盤石な体制を整えた。その根底には、従業員への深い愛情と、未来を託す者への信頼があった。
後継者たちに最高のバトンを手渡す
稲盛和夫が京セラの経営の第一線を退くに当たり重視したのは、企業の未来を託すに足る体制づくりだった(第15回参照)。
京セラだけではない。第二電電では、2000年10月にKDD、IDOとの大同団結が実現し、新生KDDIが誕生した後、稲盛和夫は会長を退き、名誉会長に就任した(2001年6月より最高顧問)。再生を担った日本航空でも、2010年2月に無報酬で会長に就任し、3年で再生を果たした後、2013年3月には会長を退き、名誉会長に就任した(2015年4月より名誉顧問)。
稲盛は、それぞれの舞台からの退場に当たって、盤石の経営体制を整えることに努めた。事業の収益性や成長性はもちろん、財務体質を十分な状態にして後進に委ねている。
さらには、後継者たちに最高のバトンを手渡しているのである。経営判断における「物差し」、いわゆる判断基準であった。これもいささか長文だが、稲盛の切なる思いが込められているだけに、引用させていただきたい。
「私はかつて京セラの幹部社員に、次のようなことをお願いしたことがあります。『何かあったときにはフィロソフィをベースにして判断をしてほしい。そしてそのときには、『稲盛和夫がこの場にいたらならば、この問題をどう考え、どう行動していただろうか』ということを踏まえた上で、物事を決めていってほしい。
つまり、稲盛和夫がここにいたら、このことについてどう考え、どう行動しただろうかということを、私になり代わって考えてほしいということを言ったわけです。






