村上春樹で味わう、アリス・マンローの短編の苦み

編訳:村上春樹
出版社:中央公論新社(中公文庫)
発売日:2016年9月21日
価格:792円(税込)
【概要】
恋する心はこんなにもカラフル。海外作家のラブ・ストーリー9編+本書のための自作の短編小説「恋するザムザ」を収録。各作品に恋愛甘苦度表示付。
アリス・マンローの短編をもう1編紹介する。村上春樹氏が翻訳して編んだ『恋しくて』というアンソロジーに収められた「ジャック・ランダ・ホテル」だ。これは味わい深いと言うよりも、奇妙な味が舌に残って後を引く。
オーストラリア行きの飛行機の中から物語は始まる。ヒロインのゲイルは、自分を捨て、若い女性を追ってオーストラリアへ移り住んだウィルのもとへ行こうとしている。
ゲイルはウィルがいなくなった後も、彼の母親と共にお酒を共に楽しむ仲だった。ある日、あえて彼女の目につくように置かれた封筒から、彼がブリスベーンに住んでいることを知る。
ウィルの筆跡を目にしたとき、ゲイルは周りのすべてのもの ──ビクトリア朝様式の家も、気持ちのいいベランダも、ジントニックも ──もう何の意味ももたぬものになってしまったと悟る。この町ウォリーのなにもかもが「無意味な張りぼて、本物の風景はオーストラリアに」あって、自分の目からは隠されていると。
ゲイルはカナダの町にボーイフレンドと流れ着き、ウィルと恋愛して居着いた。根をはやす理由だったウィルがいなくなったことで、そもそも根をはやそうとしたこと自体が空疎なことになり果ててしまったのだろうか。
経営していた洋品店(自分でデザインし、自分で縫って売っていた)を売り払い、髪を染め、服の趣味を変えて別人に変装。ブリスベーンで飛行機を降りたゲイルは、すぐさま封筒にあったウィルの新居を目指す。
その家は緑色の板塀の奥にあり、ゲイルは板塀に取り付けられた郵便受けに手を滑り込ませずにはいられない。手に当たった郵便を、彼女はバッグに入れて立ち去る。
テキサスから来たと言って投宿したホテルでその郵便物を見ると、ウィルの字だった。宛先は同じブリスベーン市内に住むミズ・キャサリン・ソーナビー。封筒には違う人の字で「差出人に返送。受取人は9月13日に死亡」と大きく書かれていた。
ゲイルは封筒を開け、ウィルが何を書いたのかを読む。見知らぬ土地、見知らぬ家、出身地を偽って滞在するホテル。透明人間のまま道徳的タブーの領域に簡単に踏み込むゲイルの振る舞いには、どこか皮膚がゾワゾワしてくるものがある。
ウィルは手紙の中でまず、自分はカナダ人であると自己紹介し、こちらにやって来てブリスベーンの電話帳を見ていて、自分の姓と同じ綴りのソーナビーを発見して嬉しくなった、自分の祖父はイングランド最北の州からカナダに移住してきたが、祖父の兄はオーストラリアに移住している。
一族の背景をそう説明した上で、自分は「貴女の従兄弟にあたるのではないかと考えております」と書いていた。自分はこの地で演劇の仕事をしている58歳で、同業の妻は、18歳以上の女性を「ガール」と呼ぶと怒る28歳であるとも。
ウィルはミズ・ソーナビーが亡くなったことをまだ知らない。ゲイルはミズ・ソーナビーの死亡で空いた部屋を借り、中古のポータブル・タイプライターも買って、ウィルと手紙の交換を始める。例えばゲイルの出す手紙はこんな風だ。
私が、苗字が同じというだけで、あなたにウェルカム・マットを出すと思ったら大間違いです。また「この家系的友誼の中に、あなたの多忙にして活力に満ちた年若い奥様が含まれることになるのかどうか(後略)」。普通なら突かないところを突いて、ねっとりした嫌みの矢を放つ。
こうして攻撃的なミズ・ソーナビー(ゲイル)に対して、ウィルも次第に棘のあるへりくだりと攻撃の矢を増やしていく。しかし何回かやり取りが続いたあと、さすがにウィルは気づく。一枚の紙がゲイルのアパートの郵便受けに入れられる。「ゲイル。君だということはわかっている」。
それこそゲイルが期待していたものだった、とマンローは書く。ゲイルは張りぼての町を去り、ここブリスベーンで「本物の風景」を見たとでもいうのだろうか。これがゲイルの見たかった本物の風景なのだろうか?
彼女は一目散に脱出の準備を整え、空港に向かう。ゲイルが「私を追いかけるかどうか、今度はあなたが決める番」と呟いて、この短編は終わる。
訳者の村上氏は「誰に対しても、不思議なくらい感情移入できない」、オーストラリアへ「逃げた男はたしかにいい加減で身勝手なやつだけど、追いかける女もただ『一途』というだけではすまないエキセントリックなところがある」と書く。
我田引水で申し訳ないが、「あまりに幸せ」で書いたさまざまな恋愛のカタチ。それにちなめば、ゲイルは熱を欲しているように見える。慇懃無礼で毒のある言葉の応酬で、相手との間に熱の対流が起こる。二人の関係は持続しているという錯覚の水槽の中で呼吸することができる。
これはもはや恋愛ゲームではないだろうか。ゲームだから、感情移入できなくても、我々はこの常軌を逸した関係から目が離せなくなってしまう。白熱のゲーム実況やスポーツ実況を観るときのように。
タイトルは、ホテルの横にある花木ジャカランダが、変な風に区切って発音されたため。ジャック・ランダと聞こえたというエピソードから取られている。銀色がかった青、あるいは銀色がかった紫など、繊細な色をした花が咲き誇る満開のジャカランダ。
日本の桜祭りのように、南半球のオーストラリアには人々が待ちわびるジャカランダ祭りがある。写真でしか見たことがないが、この短編の苦みを少しだけ薄めてくれる幻想的な風景だ。