夫の死と後悔
夫・俊通が下野守の任を終えて帰京すると、菅原孝標女は、夫や子どもたちの栄達を願い、石山、初瀬、鞍馬などでの物詣に励んだ。
天喜5年(1057)50歳の時に、夫・俊通は信濃守に任ぜられ、8月下旬に息子の仲俊ともに赴任。菅原孝標女は同行しなかった。
俊通は翌康平元年(1057)4月に一時帰京したが、9月に発病し、10月5日にこの世を去った。菅原孝標女、50歳の時のことである。
頼みの夫を失った菅原孝標女は、深く嘆き悲しみ、「物語に熱中し、若い頃から仏教修行に励まなかったからだ」などと悔いた。
菅原孝標女は天喜3年(1055)10月13日の夜に、阿弥陀仏から「後に、迎えに来よう」と告げられる夢を見ているが、この夢ばかりを後の世の頼みとしていると、『更科日記』に綴っている。
書名に込められた思いは?
『更科日記』によれば、菅原孝標女は、甥たちなどとは同じ家で朝夕、顔を合わせていたが、夫の死という身にしみて悲しい出来事の後は、それぞれ別々に住むようになり、訪れることはめったになくなった。
ところが、ひどく暗い晩に、兄弟の中で六番目にあたる甥が訪ねてきたのだ。
珍しいと感じた菅原孝標女は、思わず、以下の歌が口に出た。
月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
(月も出ない真っ暗な姨捨山のように、夫と死別して闇にまどう私の所に、どうしてこんな暗い中、訪ねてきてくれたのでしょう)
姨捨山は、亡き夫の任地であった信濃国の更科郡にあり、『更科日記』のタイトルは、この歌から付けられたといわれる(川村裕子『更級日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』)。
『更級日記』の書名には、亡き夫を偲ぶ心と、変わらぬ愛が込められているのかもしれない。