出仕と結婚
菅原孝標女が物語にのめり込んでいる間にも、治安3年(1023)には火事で家が焼けたり、万寿元年(1024)5月には姉が出産後、間もなく亡くなったりと、悲しい事件が起きた。姉の遺児二人を、菅原孝標女は養育することになる。
長元5年(1032)2月、菅原孝標女が25歳の時、父・孝標が常陸介などに任じられ、単身で常陸に下向。長元9年(1036)秋、帰京した。
帰京後、すっかり老いた孝標は隠居し、さらに実母も出家してしまう。
菅原孝標女は、家のことや姉の遺児の養育などを担い、家を支える日々を送る。
そんな中、宮仕えを人から勧められた。
両親は乗り気ではなかったが、長暦3年(1039)、32歳の冬頃、菅原孝標女は祐子内親王家に出仕することとなった。
祐子内親王は、後朱雀天皇(彰子と一条天皇の皇子)の皇女で、母は藤原嫄子(片岡千之助が演じた敦康親王の娘で、渡邊圭祐が演じる藤原頼通の養女)である。
ところが、出仕してまもなく、両親の勧めにより退出し、翌長久元年(1040)頃、但馬守・橘為義の四男である、39歳の橘俊通と結婚したとみられている。
二人の間には、仲俊という男子の他に、女子が一人、誕生したようである(宮崎荘平『平安女流日記文学の研究 続編』)。
『更級日記』によれば、菅原孝標女はその後、雑事に忙殺されて物語のことも忘れ、物詣をしてこなかったことを悔やみ、光源氏のような男性は存在しないのに、なんと浮ついていたのかと、自省したという。
淡い恋
長久2年(1041)には、夫・俊通が下野守となったが、菅原孝標女は赴任先に同行しなかった。
姉の遺児が祐子内親王家に出仕したのに伴い、菅原孝標女も時折、祐子内親王家に参上していたとされる。
この頃、菅原孝標女は3歳年上の公卿・源資通と出会ったとみられている。
資通は歌人で蹴鞠や音楽にも長けた、『源氏物語』に登場しそうな才人だ。二人は歌の贈答などで交流が深まったが、淡い恋心のまま、終わったとされる。