皇女誕生を道長は喜ばなかった?

 やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。

 道長は、産まれたのが皇子でなかったことが不服だったのか、『小右記』長和2年7月7日条によれば、「悦ばざる気色、甚だ露はなり」と不機嫌な様子であったという。姸子はきっと傷ついただろう。

 実資は、「女を産みなされたことにとるものか。これは天が行なったところであり、人事(人間に関する事)は、どうしようもない」と綴っている。

 至ってもっともな意見だ。

 道長は喜ばなかったが、三条天皇は歴史物語『大鏡』第一巻によれば、「この宮(禎子内親王)を、殊の外にかなしうし奉らせ給うて(特別に可愛がっていた)」という。

 また、「渡らせ給ひたるたびには、さるべきものを必ず奉らせ給ふ(禎子内親王が来るたびに、必ず相当な贈り物をしていた)」とある。

 祖父には喜ばれなくても、父には愛されたと信じたい。

 

皇太后に

 長和5年(1016)正月、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が僅か9歳で後一条天皇となった。皇太子には、敦明親王が立った。

 後一条天皇の外祖父・道長は摂政に任じられた。

 翌寛仁元年(1017)5月9日、三条は42歳で崩御した。姸子は24歳で、夫を失った。

 父・三条の死により後ろ盾を失った敦明親王は、同年8月、自ら皇太子を辞退。代わって、後一条天皇の同母弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)が立太子する。

 寛仁2年(1018)3月、姸子の同母妹・佐月絵美が演じる藤原威子が後一条天皇に入内し、10月に立后。中宮となる。

 姸子は皇太后に転じ、太皇太后である彰子と合わせ、娘三人が后となる「一家三后」が現出し、道長の栄華は頂点を極めた。

 皇太后となった姸子は、娘・禎子内親王と暮らしたという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第八章 次女姸子 ◎姉とたたかって」)。