取材・文=吉田さらさ 

穂高神社 本宮 拝殿と神楽殿 写真=photo_sada/イメージマート

由緒深い神社仏閣が多数ある安曇野

 今年もまた記録を更新する暑い夏。こんな時は、涼しい避暑地に旅をして優雅に過ごしたいものである。数ある高原リゾートの中でもわたしが特に好きなのは長野県の安曇野だ。

 北アルプスの麓に広がる豊かな農耕地帯だが観光地としても優れ、しゃれたホテルや美術館なども点在する。しかし安曇野の魅力はそれだけではない。実はこのあたり一帯は、由緒深い神社仏閣が多数ある歴史探訪エリアでもあるのだ。

 まずは寺の話から始めよう。豪壮な山門と見事な紅葉で知られる大町市の霊松寺、花々が咲き乱れる極楽浄土のような風景を楽しめる穂高町の満願寺、そして国宝に指定されてもおかしくない菩薩像がある松川町の観松院。

 この菩薩像は7世紀に作られたとされる弥勒菩薩半跏像、つまり京都広隆寺にある弥勒菩薩半跏像と同じタイプで、大陸からの渡来仏である可能性が高い。なぜ都を遠く離れた山里にこのような貴重な仏像があるのか。それは『安曇野』という地名に関係がある。

 安曇野は、古代に海運を司っていた安曇氏という豪族が移り住んだ場所であるためこの地名がついた。これはあくまで一説ではあるがかなり有力な説なので、この先は、それに従って話を進める。安曇氏のルーツについても諸説あるようだが、一般によく言われるのは福岡県の志賀島あたり。金印が出土した場所として有名なところである。

『古事記』には、「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。綿津見神は伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰って禊をした際に生まれた海の神、その子の宇都志日金柝命の別名は穂高見命。この神が安曇氏の祖神であり、北アルプスの名峰、穂高連峰の名称の由来でもある。

 

安曇野の歴史にかかわる神々が祀られた神社

穂高神社 本宮 鳥居

 そて、ようやく今回のメインテーマである穂高神社の話だ。JR大糸線の穂高駅から徒歩数分。安曇氏の祖神である穂高見命を御祭神とする立派な神社である。建物は主に檜材で造られており、境内に漂う香りもすがすがしい。

 この神社は伊勢神宮と同じく20年に一度の式年遷宮を続けており、直近では令和4年に行われたばかり。常若の思想によるものか、雰囲気がとても若々しい。立派な鳥居をくぐるとまずは神楽殿、続いて拝殿がある。

穂高神社 本宮 本殿

 その奥に三棟の本殿がある。中殿に穂高見命、左殿にその父神の綿津見命、右殿に天孫、瓊瓊杵尊の三柱が祀られている。本殿でのお参りを終えたら右側の若宮社へ。こちらには阿曇連比羅夫命と信濃中将が祀られている。この二柱も、安曇野の歴史を知る意味でたいへん重要な神々だ。

 阿曇連比羅夫命は安曇比羅夫という飛鳥時代の人物を神格化したものである。第34代舒明天皇の在位中に朝鮮半島の百済に使者として渡り、百済の要人を連れて帰国。続く斉明天皇の御代に、唐と新羅の連合軍に攻められた百済を救援するための軍の将軍となった。

 天智天皇の即位中、日本へ渡来した百済の王子と共に水軍170隻を率いて百済に渡り、あの白村江の戦いで戦死したとされる。安曇氏は北九州の海で活動する一族であったため、朝鮮半島との交易なども盛んに行っており、関係が極めて深かった。安曇比羅夫はそんな安曇族が誇る国際的な英雄なのである。

 そして、先に述べた観松院の弥勒菩薩半跏像も、安曇氏と朝鮮半島の関係性を物語る貴重な遺物とも考えられる。日本国内にあるものの一部は、渡来人が贈り物として携えてきたと言われている。主に畿内の寺に多く伝わっているが、その一つが、百済を救援した安曇比羅夫とゆかりの深い安曇野の寺にも密かに伝来していたということだ。