文=松原孝臣 撮影=積紫乃

うれしさと悔しさを経験したシーズン

 たしかな存在感とともにシーズンを駆け抜けた。シニアデビューの1年、千葉百音は、そう表現するに値する活躍を見せた。

 シーズンが進むにつれて調子を上げて、全日本選手権ではジュニア時代から数えて5度目の出場で初めて表彰台に上がる2位。2度目の出場となった四大陸選手権では初優勝を果たし、初めての出場となった世界選手権で7位。「初」という文字が躍る。

2024年2月2日、四大陸選手権、女子シングルで優勝した千葉百音 写真=新華社/アフロ

 でも千葉にとっては満足とは言えない。

「うれしさと悔しさ、両方を経験できた、中身の濃いシーズンだったなと感じています」

 悔しさの中身をこう語る。

「シーズン序盤はなかなか調子があげられず結果が出せなくて悔しい大会が多かったです」

 国内の大会を経て出場した9月のオータムクラシックを6位で終えると、グランプリシリーズのデビュー戦となったスケートアメリカは6位、続くフランス杯も9位にとどまった。

 調子が上がらなかったのは、春頃から息苦しさを感じ、思っていたような練習ができないことにあった。

「なんでかなとずっともやもやしながら、でも一生懸命練習して、という感じで。自分の中で解明しきれなかった精神的な部分も大きかったですね」

 状態は変わらず、フランス杯後になって受診。運動誘発性喘息と診断された。治療を開始し、症状が悪化しないための対処方法や呼吸方法を学び、状態が改善されるとともに全日本選手権以降、好成績をあげた。

 前半の成績には体調が大きく影響していた。でも「悔しい」と言う。

「シニア1年目でしたし環境も変わって少し右往左往してしまうところがあったかもしれないですけれど、もう少し客観的にみつめて、原因をもう少し早くみつけられていればという後悔の方が大きいですね」

 

スケート人生の中で一番頑張らなきゃいけない

 千葉にとって、シニアに上がって1年目の昨春、仙台から京都の「木下アカデミー」に拠点を移していた。当時は高校3年生。それは1つの、大きな決断だった。

「いつから考えたのか、自分の中でもよく分かってはいないんですけど、ミラノオリンピックに出たいと考えたときに、高3に上がるタイミングでもう少しもっと自分を強化していかないといけないなというふうに強く感じたので、そのタイミングで移籍を決断しました。今の実力のままでもミラノに行くのは厳しいと考えてはいるんですけれど」

 と前置きした上で言う。

「自分のスケート人生の中で一番頑張らなきゃいけないのはこの2年、3年だなと強く感じていて、一番の目標はミラノオリンピックに出場することだと強く意識するようになったのが決断するにあたって大きかったと思います」

 オリンピックは早くから描いていた夢だった。

 千葉は4歳の頃、スケートを始めている。

「華やかにまわったり、踊ったり、ジャンプしたり、テレビで観て自分もああいう風に華やかにやってみたいと思ってやり始めました。最初は見様見真似でやっていて、スピードをめっちゃ出して鬼ごっこしたりするのも楽しかったです」

 小学生になると大会に出るようになり、やがて全国大会にも出場するに至った。

「小5、小6あたりですかね。全日本のノービスに出場するようになったあたりから、競技として集中して打ち込もうと思いました。オリンピックに出たいというのはずっと思っていました。ただ夢でもあり、目標でもありという感じで、小5、小6の本格的にスケートをやるときもまだ漠然とした感じでした」

 全国大会に出るまでになった千葉は、小学6年生のときに参加した野辺山合宿で選考され、国際大会にも派遣された。ただ、ノービスBやノービスAの特に1年目は、決して華々しい成績を残していたわけではない。全日本選手権でみれば、小学4年生で出場したノービスBは21位、5年生で出場したノービスAは29位、6年生のときは大きく上昇して6位。ただ表彰台に上がるまでには至らなかった。

「そうですね。たしかにノービスBとかそれこそAの1年目まではジャンプのレベルや競技力もあまり上の方ではなかったと思います。優勝できる位置ではなかったです」

 振り返ったあと、千葉は続けた。

「でも、その中でも自分はもっと上手くなれるって思っていました。だから高校生までしっかり続けられたのかもしれません」

 そしてこう語る。