彰子所生の皇子誕生と、一条天皇の崩御
寛弘5年(1008)9月11日、21歳になった彰子は、一条天皇の第二皇子となる敦成(後の後一条天皇)を出産し、翌寛弘6年(1009)11月25日にも、第三皇子となる敦良(後の後朱雀天皇)を生んでいる。
彰子の父・道長は、彰子所生の皇子誕生を喜んだ。
寛弘8年(1011)5月、一条天皇は病に倒れ、皇太子であった居貞親王に譲位し、6月22日に崩御した。
享年32、在位は25年の長きにわたった。
「君」は誰を指す?
藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘8年6月21日条によれば、一条天皇は崩御の一日前に、彰子が御几帳の近くで見守るなか、以下の歌を詠んでいる。
露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬる事をこそ思へ
(露の身のような私が、草の宿に君〔藤原彰子〕を置いて、塵の世を出る事を思う)(倉本一宏『藤原道長 「御堂関白記」(中)全現代語訳』
『権記』同日条の歌は以下の通りで、『権記』とは微妙に違う。
露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき
(露の身のような私が、風の宿に君を置いて、塵の世を出る事が悲しい)(倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳(下)』)
いずれにせよ歌意から、君とは、このとき生きている妻、すなわち、『御堂関白記』にあるように、彰子のことだと思える。
ところが、『権記』で行成は、定子のことだと記しているのだ。
行成が、定子のことだと感じるほど、一条天皇と定子の絆は深かったのだろうか。