史上初の「一帝二后」と定子の死
長保元年(999)11月1日に、見上愛が演じる娘の彰子(母は黒木華が演じる源倫子)を入内させた。のちに紫式部が仕えたのは、この彰子である。
彰子は一条天皇より8歳も年下で、まだ12歳であった。
一条天皇は入内から6日後の11月7日に、彰子に女御宣旨を下した。同じ日、定子が第一皇子となる敦康親王を出産している。
幼い彰子は、まだ一条天皇の寵愛の対象になり得なかったが、翌長保2年(1000)2月、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を決行した。
だが、一帝二后の状態は、長くは続かなかった。
同年12月、定子が、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に、24歳、もしくは25歳の若さでこの世を去ったからだ。
渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』長保2年12月16日条によれば、定子の死を知った一条天皇は「皇后宮すでに頓逝、甚だ悲しい」と語っている。
定子の妹に面影を重ねた?
定子の忘れ形見で、唯一の皇位継承者である敦康親王は、彰子の猶子となり、彰子の御在所で育てられることになった。
彰子の御在所では、定子の実妹(道隆四女)・御匣殿が、敦康親王の「御母代」として、仕えていた。
歴史物語『栄花物語』巻第八「はつはな」には、一条天皇は御匣殿を寵愛し、懐妊させたことが、綴られている。
御匣殿は一条天皇の子を宿したまま、亡くなったという。
この話が史実だとしたら、一条天皇は御匣殿に、定子の面影を重ねたのだろうか。