梨園に比べちょっと地味、と思われがちな文楽。確かに文楽の技芸員さんは歌舞伎俳優のようにテレビドラマに出演することもないし、週刊誌の見出しに登場することもない。ストイックに芸をきわめ、粛々と舞台に立つ日々を送っています。そんななかで最も華やかなイベントが襲名披露。この4・5月はまさにその襲名披露公演が行われるタイミングなのです。
文=福持名保美
太夫の双璧、竹本と豊竹。語りの妙を体感したい
豊竹呂太夫(とよたけろだゆう)改め十一代目豊竹若太夫(わかたゆう)。この春、57年ぶりに文楽の大名跡が復活した。
豊竹若太夫とは、どれだけ大きな名跡なのだろうか。初代は人形浄瑠璃の歴史にその名を刻む。義太夫節をつくりあげた竹本義太夫の高弟で、独立して元禄16年(1703)に豊竹座を開き、竹本座と競い合って人形浄瑠璃を最盛期に導いた、文楽隆盛の立役者なのである。
1703年といえば近松門左衛門による『曾根崎心中』初演の年。人形浄瑠璃におけるふたつのエポックが同時に起こったこととなる。現在、文楽の太夫の芸名には竹本姓か豊竹姓しかないが、この竹本義太夫と豊竹若太夫がそれぞれの元祖。その偉大さを実感していただけただろうか。
ちなみに初代若太夫は幅広い音域の美声で、特に見事な高音を生かした歌うような芸風だったとされる。対して竹本座は重厚な芸風。道頓堀の西側にあった竹本座は「西風(にしふう)」、東側にあった豊竹座の芸風は「東風(ひがしふう)」と呼ばれた。このふたつが義太夫節の基調となり、現在に至る。よく「西風は地味、東風は派手」と言われるのがこれだ。
祖父は人間国宝。だが、太夫になる気はなかった
文楽=実力主義の世界。大名跡の息子に生まれても、その跡を継げることが約束されているわけではない。文楽の三業——太夫・三味線・人形いずれも、修業の長さ、厳しさは、人間国宝の息子も一般の家庭から飛び込んできた者も変わらない。初舞台からテレビカメラに追われ、若くして大役を任される歌舞伎の御曹司のようなことはないのだ。
当代(十一代目)の祖父、十代若太夫は人間国宝。50代で視力を失いながらも、熱気溢れる豪放な語りで「いのちがけの浄瑠璃」と称えられた大名人だ。その孫ということは代々若太夫?と思われるかもしれないが、十代は息子(十一代目の父)を文楽の道には進ませなかった。十代当人も徳島に生まれ、二代呂太夫に入門して研鑽を積んだ人である。若太夫の家柄に生まれたわけではない。
このたび襲名した十一代目も高校のころは弁護士を目指し、のちに作家を志すなど、太夫になる気はなかったそうだ。20歳で文楽の道に入るときには、もう祖父は亡くなっていた。
祖父の通夜の席で、五代呂太夫に太夫への道を進められたのがきっかけで、三代竹本春子太夫(はるこだゆう)に入門、内弟子に入り師匠の家に住みこむ。
師匠の没後は四代竹本越路大夫(こしじだゆう)のもとで、合わせて6年間の内弟子生活を送る。豊竹英太夫(はなふさだゆう)から六代豊竹呂太夫を、2017年70歳のときに襲名し、今回77歳で十一代目若太夫となった。