二人の正妻
次に実資の妻を、ご紹介したい。
実資には女性を好んだという逸話が残り、何人かの妻がいたが、社会的に正妻と認められたのは源惟正の娘と、婉子女王の二人だという(増田繁夫『平安貴族の結婚・愛情・性愛―多妻制社会の男と女』)。
まずは、一人目の正妻である源惟正の娘からみていこう。
実資が、源惟正の娘と結婚したのは、天延元年(973)8月~翌天延2年(974)10月ごろだとみられている。
実資は17歳、あるいは18歳で、初めての結婚だったと思われる。源惟正は文徳天皇の玄孫にあたり、二条大路に大邸宅を所有する上級貴族だった(繁田信一『かぐや姫の結婚―日記が語る平安姫君の縁談事情』)。
実資と妻の間には、寛和元年(985)4月に女児が誕生した。
ところが、妻は翌寛和2年(986)5月に、娘も正暦元年(990)に6歳で亡くなってしまった。
婉子女王を射止め、ライバルに羨ましがられた?
実資の二人目の正妻となったのは、婉子女王である。
婉子女王の父は為平親王、母は醍醐天皇の皇子である源高明の娘である。「女王」と称されるのは、皇子の娘で天皇の孫娘だからだという(繁田信一『『源氏物語』のリアル 紫式部を取り巻く貴族たちの実像』)。
婉子女王は花山天皇の女御で、寛和元年(985)12月、14歳のときに入内した。
『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」には、「いみじううつくしくおはします」と評判の女性で、花山天皇から大変に寵愛されたことが記されている。
ところが、翌寛和2年(986)6月、花山天皇は出家し、譲位したため、婉子女王も後宮を出た。
『大鏡』第三「右大臣師輔」には、中古三十六歌仙の一人である藤原道信(太政大臣藤原為光の子)が婉子女王に便りを送っていたことが記されているが、婉子女王は正暦4年(993)ごろ、実資と結婚した。
藤原道信は
うれしきは いかばかりかは思うらん 憂きは身にしむ心地こそすれ
(恋を得たあなたは、どれほど嬉しいことでしょう。恋を失った私は、我が身の情けなさが身に染みます)
という歌を実資に届けさせたという(『栄花物語』巻第四「みはてぬゆめ」 『栄花物語① 新編日本古典文学集31』校注・訳 秋山虔 山中裕 池田尚隆 福永武彦』)。
藤原道信は婉子女王と結婚した実資を、羨んだのだろうか。