『小右記』と呼ばれる理由は?

 実資は、日記『小右記』を残したことでも知られる。

『小右記』は、宮廷の政務や儀式の様子などが、詳細に記録された日記だ。

 逸文が多く、欠落している部分もあるが、それを含めると、日記の期間は貞元2年(977)から長久元年(1040)まで、実資の年齢でいうと、21歳から84歳までの63年にわたる(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代 』)。

 実資が「小野宮右大臣」、あるいは、「小野宮右府」と呼ばれていたため、当初は『小野宮右大臣記』、あるいは『小野宮右府記』と称されていたが、それが省略されて『小右記』となったという。

 道長が我が世の春を謳ったとされる

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

(この世を、我が世と思う。望月(満月)が欠けることもないと思うから)

 という有名な『望月の歌』を書きとめたのも、『小右記』である(寛仁2年(1018)10月16日条)。

 

道長に迎合せず

『小右記』には、道長の言動に対する、鋭い批判が随所に見受けられる。

 だが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏氏は、実資は道長を嫌っていたのではないという。

 実資は、自分は「道長の臣」ではなく、天皇や国家に仕える「朝廷の臣」だという強い信念をもち、道長への批判がなされるのも、天皇や朝廷を尊重しない場合に限られると述べている(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 道長も、有職故実に精通し実務能力に長けた実資を重視した。

 道長の嫡男・渡邊圭祐が演じる藤原頼通も、父・道長の引退にともない寛仁元年(1017)に、26歳で摂政の座に就くと、実資を頼ったという。