文=細谷美香
『グラディエーター』監督と主演が再びタッグ
古代ローマを舞台にした『グラディエーター』でタッグを組んだリドリー・スコット監督とホアキン・フェニックスが、『ナポレオン』で再び歴史大作に挑んだ。
マリー・アントワネットがギロチンで処刑された時代。リドリーはコルシカ島出身のまだ若いナポレオンが名声を得たトゥーロンの戦いから、栄光の日々を経て敗戦に追い込まれたワーテルローの戦い、そして流刑地であるセントヘレナ島で生涯を終えるまでの激動の人生を描き出した。
皇帝ナポレオン・ボナパルトを主人公にしているが、彼を英雄視する映画でもなければ、シンプルな伝記映画でもない。監督がナポレオンという人物にアプローチするために焦点を当てたのは、最愛の妻との関係だ。周囲の反対を押し切って結婚したのは、年上で離婚歴があり、ふたりの子供がいるジョゼフィーヌ。
彼女は奔放な自分を取り繕うことなく浮気を繰り返す勝気な女性で、ナポレオンに対してもひるまず率直に向き合っていく。翻弄され続けるナポレオンは戦いの指揮をとりながら妻の心変わりを心配し、ラブレターを綴る。夫婦は衝突しては寄り添い、また衝突する。子宝に恵まれなかったことを理由に離縁することになるふたりだが、分かちがたい特別な関係は容易く絶たれることはない。
『ジョーカー』のホアキンを見た監督は「『この小さな悪魔はナポレオンそのものだ』と思った」と語っている。確かに『ジョーカー』と『ナポレオン』は不安定でエキセントリック、賢さと情けなさを併せ持ち、愛を求めながら戦いに取りつかれていく男の物語という点で共通しているかもしれない。
ナポレオンに「君はケダモノだ」と言われても「あなたは私なしには偉大にはなれない」と静かに言い放つジョゼフィーヌを演じたのは、『ミッション:インポッシブル/デッドレコグニングPART ONE』でも強い印象を残したヴァネッサ・カービー。一貫して失われることのない彼女の気高さが、この映画の軸になっている。監督はジョゼフィーヌのストーリーを深めた4時間を超えるディレクターズカット版の存在を明かしているが、『最後の決闘裁判』と同じように女性側の視点を盛り込んだ歴史劇として、見応えのあるものになっていることを期待したい。
複雑で矛盾に満ちた夫婦のラブストーリーである一方、戦闘シーンは監督らしい臨場感と高揚感にあふれている。観る者を戦いの真っ只中に引きずり込むようなダイナミックなカメラワーク、8000人ものエキストラを兵士として起用して生み出した壮大な合戦シーンを目にすると、監督にしか撮れなかった歴史活劇であることがわかる。
なかでも馬と兵士が大砲によって割れた湖の氷の下へと沈み、水中で血が流れていくアウステルリッツの戦いは忘れがたい。この映画には戴冠式をはじめ絵画のごときシーンが数多くあるが、アウステルリッツの戦いの場面はまるで霧のなかで描かれた残酷で美しいアートのようだ。
ナポレオンが率いた戦いによって、300万人以上が犠牲となったと言われている。リドリー・スコット監督は戦術に優れた偉大な民衆のヒーローとしてではなく、あくまでも弱さをもつひとりの男としてナポレオン・ボナパルトという人間を紐解いてみせた。それゆえにこの映画を観終わる頃には、戦うことの愚かさと虚しさが色濃く残る。