太宰は生と死の岐路に何度か立ちました。最終的に死に至ってしまった背景には、何があったのでしょうか?

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

太宰治像 写真=アフロ

名家に生まれた不幸

 太宰治といえば津軽の名家出身というイメージが強いと思いますが、戦前、地方の地主の次男、三男に産まれた人は、とっても不幸でした。当時は長男だけにありったけの愛情も財産も注ぎ込んで、父親の死後も全財産を継がせます。次男以下は服も文房具も全部長男のお下がりを使い、財産を譲渡されることも一切ありません。愛情も注いでもらえず、もし、長男が死んだら兄弟のうちでいちばん家を継ぐのに相応しい者を選んでやる、くらいの存在だったのです。

 太宰治(本名・津島修治)は、11人兄姉妹の10番目、上に5人も兄がいる六男として生まれました。父親・源右衛門は豪農の家からとった婿養子でした。津島家の職業は庄屋でしたが源右衛門は銀行を設立して頭取になり、県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などもしていました。

 母親の夕子は病弱で、子どもたちは皆、乳母によって育てられます。もちろん、六男である修治のことなどまったく関心がありません。

 太宰は、つねに母親の「愛情」に飢えているのです。このことが作家太宰に大きな影響を与えます。

 1945年(昭和20)10月から翌年1月にかけて、仙台の新聞「河北新報」に連載した『パンドラの匣』に、こんな文章があります。

 君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。僕はいままで、竹さんの気のよさを少し軽蔑(けいべつ)していたが、あれは間違いだった。さすがに君は眼が高い。とてもマア坊なんかとは較(くら)べものにも何も、なるもんじゃない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷たく澄んでくる。

太宰治『パンドラの匣』(新潮文庫)

 この文章からすれば、「正しい愛情」とは、すなわち「心情の美しさ」と重なるもの、あるいは「心情の美しさ」を、さらにもっと突き詰めたものだと考えられます。母親であるなら、そういう気持ちで自分にも愛情を注いで欲しいのだ、「僕」はそれを求めているのだ、とこの小説で太宰は訴えます。でも、母は決して「正しい愛情」を太宰に注ぐことはありませんでした。『パンドラの匣』に登場する「正しい愛情の人」である「竹さん」は、母親への当て付けなのです。

 だから、『パンドラの匣』に書かれるように、「僕」は堕落してしまうのでした。

 太宰は、この「正しい愛情の人」という言葉を、1947年(昭和22)に発表した『斜陽』でも使っています。こんな表現は、同時代の作家に見つけることができません。太宰ならではの表現です。

 僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の作品の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目(でたらめ)、きたならしさに興覚めて、そうして、それに反比例して、その人の奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。

太宰治『斜陽』(新潮文庫)

 第2回で紹介した、川端康成が『伊豆の踊子』で書いた「いい人っていいね」という言葉に共通する部分もあるのではないかと思います。川端も父母の愛情をまったく知らずに生きた人でした。しかし、ひどい言い方になってしまうかもしれませんが、川端の場合は2歳で父を、3歳で母を亡くしていて、父母を知らずに育った分だけサバサバとしていられたのだと思います。太宰の場合、母親は長兄だけを可愛がって自分を無視しました。愛情の渇望から、母親以外の女性にそれを求めるしかなくなってしまうのです。

 母親の「愛情」がどれだけ子どもに必要なのかということが、心理学や脳科学などでわかってくると、太宰がテーマとした「正しい愛情」不足から人は「堕落」するということは、文学のテーマとして成り立たなくなってしまうのです。

 言い替えれば、太宰の文学は、もはや「古典」であって、現代的な文学のテーマではなくなっているのではないでしょうか。