2人の子どもが生まれたことが死を早めた?

 太宰の人生の分岐点を考えると、まず小説家になろうと思った24、5歳の時、芥川賞を獲れなかった時、そして剽窃事件でしょう。しかし、人間としても作家としても最終的な分岐点は、同じ歳に妻と愛人に女の子が生まれたことではないかと思います。

 太宰は2番目の妻・美知子と30歳で新世帯を持った後、しばらく安定した執筆活動をしていました。32歳の時に長女・園子、35歳の時に長男・正樹が誕生しています。

 そして1927年、38歳で死ぬ前年、3月に正妻の美知子との間に次女・里子が生まれ、12月に大田静子との間の子・治子が生まれます。のちに津島祐子、大田治子という作家になったふたりです。

 このことが、「これでは自分はダメだ」という最後のボタンを押したのかもしれません。

 経済的にも精神的にも「自立」できていない人として、仲間の作家や編集者、出版社の人たちからも冷たい目で見られるようになってしまうのです。

 そうした「文学」、つまり自分をさらけ出すだけの「文学」は、昇華しきれないただの雑文になってしまうところまで来てしまっていたのです。

 太宰は、官立弘前高等学校(現・弘前大学)に入学した1927年(昭和2)5月21日、青森市で開催された芥川龍之介の「夏目漱石」と題した講演を聴きに行きます。その2カ月後の7月24日、芥川が睡眠薬自殺したことは太宰にとってたいへんショックな出来事でした。

 太宰は芥川を敬愛し、芥川のようになりたいと思っていました。その芥川は天才だと言われながら、なかなか小説が書けずに苦しみます。その気持ちをいろいろな人に訴えていて、親しくしていた野上弥生子にも相談しました。すると野上弥生子は「だったら死んだらどう? そうしたらいっぱい印税が入ってくるから家族は暮らしていける」と言ったそうです。それが原因かどうかわかりませんが、半年後に芥川は自ら死を選びます。

 芥川が書いている時にさほどお金は入ってこないけれど、死んだら家族にお金が入ることを見越して死んだように、太宰も自分がもしも死んだら家族はうまくいくのではないかと思ったのでしょう。

 太宰が35歳の時に書いた、戦争中に帰郷した故郷を題材にした『津軽』は、初めて自分が生まれたところを客観的に見ていく作品で、ものすごく良い作品だと僕は思います。自分が生まれたところはどういうところなのか、自分の人格はどうやって作られて行ったか、これから津軽はどうあるべきか。自分自身も生まれ変わろうとしていることがわかる作品です。

 人間としてどうあるべきか。社会を変えていくために自分はどうあるべきか。そこがなければ文学には意味がないのではないでしょうか。川端のように日本の美を守っていくというような強さが太宰にあったならば、おそらく死ぬことはなかったでしょう。

 また、太宰と同時代に生きた文学者、埴谷雄高、高橋和巳、荒正人などは、非常に強い意志で「文学」と立ち向かっています。

 私生活をさらけ出すことだけでは、世界の文学に肩を並べることはできません。太宰の文学は、残念ながら、そこまで行き着く力がないのです。それを太宰自身、気が付いていたのではなかったのでしょうか。

「子どもより親が大事と思いたい」(『桜桃』)という言葉は、そうした無責任さに苛まれた人の言葉ではないかと思うのです。