文=松原孝臣 写真=積紫乃

「今度行くならフィギュアスケートを習わせてほしい」

 通訳をはじめ幅広い活躍を続ける平井美樹が、その核である英語と出会ったのは幼稚園の頃だったという。 

「転勤族だったのですが、新潟に住んでいたときに地元の教会に英語を習いに行くことになりました。楽しくやってはいたけれど、『なんでかな』と思っていました。その翌年、父がカナダに駐在になりました。そのための予行練習だったんですね」

 小学1年生のとき、カナダ・モントリオールに移住する。

「ほとんどが白人の人で、東洋人は1人、イヌイット系の人が1人。英語を覚えないとサバイバルできない環境に、ぽん、と入れられました」

 カナダに着いたのは冬だった。モントリオールは厳寒の地としても知られる。

「父がお庭にアイスリンクを作ってくれました。それだけでなく目の前が湖や川でしたし、地元の公園にもすべてアイスリンクがありました。ガレージセールで買った中古のぼろぼろのスケート靴を履いて、滑ることを覚えました」

 それが「英語を覚えないとサバイバルできない環境」にあって、大きな意味を持った。

「『あの家にはリンクがあるから英語ができないけれど行ってみよう』と遊びに来てくれて。英語も教えてもらいました。英語はできなくても、氷を介して友達ができました」

 小学1年から正味2年滞在していったん帰国する。そこでもスケートとかかわることになった。

「日本語が変な発音になっているので学校でいじめられました。すると母が品川のリンクに連れて行ってくれて。フィギュアスケートをやっていたわけではありませんでしたが、くるくる(リンクを)まわっているのがストレス解消になって、スケートに助けてもらっていたところがありました」

 小学6年生になると再びカナダへ渡る。

「2度目のカナダでまた同じところに戻ると聞いて、内心はすぐに戻りたいと思っていましたけれど、交渉しました。モントリオールよりもっと田舎に住んでいる、幼馴染のお友達2人がフィギュアを習っていたんです。そのお嬢さんたちを見ていたので、『今度行くならフィギュアスケートを習わせてほしい』と言いました。ただアイスホッケーもやりたいと思っていてリンクに行くと、『君はちっちゃいからアイスホッケーは無理、あっちのリンクに行きなさい』。それがフィギュアでした。ジャンプが下手なので、アイスダンスの方がいいかなと思いました」

 中学3年で帰国すると、神宮のリンクに通い始めた。

「お小遣いの範囲で、『自分はこれしか出せないので』と言ったら、『コーチもつかなくて趣味としてならいいですよ』と言っていただいて。夜、アイスダンスを大人の人たちと滑っていました。

 そのうちに思いがけないこともあったんです。大学受験が終わった頃、リンクで一緒に組んで滑っていた背の高い外国人のおじいちゃんから『君は受かったのかい?』と聞かれました。『上智大学です』と答えたら、おじいちゃんは顔が真っ青になって言いました。『これから君と僕は秘密の契約を結ぶ。僕は上智の理事長なんだよ。神父になってもスケートだけは神様に内緒なんだ、女性と組んだりするのであまり学校にも言っていないんだけどね』。入学式で会うとウインクされて(笑)。亡くなられたので時効だと思うんですけどルーメル神父という方です」