ヴァチカンの「署名の間」は大評判を呼び、注文は殺到。さらにサン・ピエトロ大聖堂の造営主任など数々の名誉ある地位を手に入れたラファエロに、突然の死が襲います。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《キリストの変容》(部分)1518-20年 油彩・板 405×278cm フィレンツェ、ピッティ美術館

プロデューサー、建築家としてのラファエロ

 ローマでラファエロは教皇をはじめ人文学者や大商人などから、注文が殺到します。そうなった背景には、ミケランジェロやレオナルドのように気まぐれだったり遅筆だったりすることもなく、誠実に着々と仕事をこなす姿勢はもちろん、自己プロデュースに秀でていたことが挙げられます。

「ヘリオドロスの間」に描き込まれていたライモンディは、ラファエロ専属の版画家で、ラファエロの作品を版画としてコピーし、広く流布させました。宣伝手段がなかったこの時代、このように自分をプロデュースして、効果的に作品を広めたところもラファエロの特筆すべき才能です。

マルカントニオ・ライモンディ(下絵ラファエロ)《パリスの審判》1514-16年頃 銅版画 29×44cm 

 ラファエロがライモンディの版画のためだけに下絵を描いた《パリスの審判》(1514-16年頃)をもとに描かれたのが、印象派の創始者ともされるエドゥアール・マネの代表作《草上の昼食》(1863年)でした。版画の右側にいる3人だけを取り出して描いた大作は、裸の娼婦と男性たちのピクニック風景のようだと、当時、大批判を受けます。しかし、同時代性を描いたと評価されるマネが、実はラファエロという偉大な過去の作品を参照していたというエピソードも面白いと思います。

エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年 油彩・カンヴァス 208×265cm パリ、オルセー美術館

 さらにローマでは建築家としての才能も発揮し、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任に抜擢されます。1514年、前任者のブラマンテが亡くなったため、その後継にフラ・ジョコンドとともに任命されました。ラファエロはそれまでのプランを変更しますが、のちにミケランジェロがブラマンテのプランを評価してもとに戻そうとしたため、完成した大聖堂はその折衷様式となっています。

 フィレンツェでは良好な関係だったラファエロとミケランジェロでしたが、ローマに来てからのラファエロをミケランジェロはライバル視しました。さらにミケランジェロはラファエロと同じウルビーノ出身のブラマンテとも仲が悪かったようです。ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂天井画の制作過程は教皇にも誰にも見せないと断っていたのに、造営主任だったブラマンテがラファエロに密かに鍵を渡して見せたため、ラファエロはすぐさま、ヴァチカンの作品にその表現を取り入れたといわれています。

 同時期、レオナルドもローマに呼ばれます。しかし、ミケランジェロとラファエロが今の額にすると億単位の報酬だったのに比べ、レオナルドは150万円くらいという極端に少ない額だったそうです。この時代の画家にとって、ローマに行くことは夢でしたが、残念なことにレオナルドはここでその痕跡を残すことはできませんでした。

 1515年にラファエロはローマ市内の遺跡の調査・管轄の監督官にも任命され、古代建築や彫刻、絵画などに触れ、見識を深めました。とくに悪名高き古代のネロ帝の「黄金宮殿(ドムス・アウレア)」を調査した際に目にした、鮮やかな色彩の天井画や壁画、白色の浮き彫り、そしてグロテスク紋様と呼ばれる、動植物や空想上の生き物が規則的に組み合わせた装飾に感銘を受けます。

 そしてすぐにヴァチカン宮殿のレオ10世のロッジャ(回廊)などで再現したことで、グロテスク紋様は一気にヨーロッパ中に広まり、流行となりました。これもひとつのルネサンスの例です。グロテスクは今日ではおどろおどろしいものを形容する言葉として使われますが、もともとはイタリア語の洞窟=グロッタにちなんだ言葉です。

ヴァチカン宮殿「レオ10世のロッジャ」とグロテスク紋様 1517-19年

 このようなことも見落とされがちですが、ラファエロの大きな功績なのです。