文・写真=沼田隆一

アメリカ在住40年以上という筆者が、3年半ぶりに来日。そこで触れたコロナへの対応や光景、さらに東京の街で見た日本ならではの習慣について、率直に語った。異国で暮らす日本人の目に現在の日本はどう映ったのだろうか。

マスクと日本人

  2023年春、パンデミックが始まって以来遠い国となった日本に3年半の時を経て羽田に降り立った。ボーディングブリッジから吐き出される搭乗客のスマホに取り込まれているVIST JAPANの画面を大勢の係員がフットボールの選手のように素早くチェックして誘導している。その一糸乱れぬ動きは日本にいるのだということを私に自覚させた。同じことがニューヨークの空港で行われていたらとんでもない列ができていたであろうとゾッとした。この機敏なオ―ケストレートされた陣立ては日本でしかできないものである。

 誘導される多くの人の流れに身をゆだねながらあることに気が付いた。マスクである。そういえばアメリカの航空会社のキャビンではほとんどマスクは見られず、私の頭のなかからもマスク着用の観念が過去のものとなっていた。かなり前からマスクやソーシャルデイスタンスは個人の判断にゆだねられ、5月にはCOVID-19による緊急事態宣が解除されマスクをする人の数は大幅に減る一方である。すでにCOVID-19を口にする街の人はほとんどいない。街角至る所にあった無料で検査をしてくれるブースもなくなった。確か空港内でもマスクはしなくてよくなったはずの日本ではあるが、マスクはやたらと目につく。

 滞在した日本では街に出てもまだまだマスクをしている人が多い。花粉のシーズンもあったのかもしれないが、花粉のシーズンイコールマスクの考えがないアメリカからくると、その整然とマスクで街を歩く姿はある意味圧巻である。

 なぜこんなに多数の人々がマスクをするんだろうと、余計なお世話かもしれないが思いをめぐらした。偶然目にしたテレビのニュースでサラリーマンがインタビューに答え、自分は外したいが会社でみんなしているので外しにくいというようなことを言っていた。もちろん自分の判断でマスクをする人は少ないながらアメリカにもいる。しかし日本のように周りの眼や自分の帰属する組織の眼を気にして、自分の意に反してすることにも甘んじて従うことはない。日本を離れて長くなる私の目にはとても奇異に映る。

 なぜなんだろう。そこまで個を捨てることが何になるんだろう。私のつまらぬおせっかいは強い好奇心の迷路に入っていった。

個と集団

  集団が生み出す力は日本の今までの成長が如実に物語っており、また法順守や治安の良さはやはり集団の規範を重んじる日本ならではと思う。実はアメリカではCOVID-19の5回接種を終わった人は国民の20%にも満たないというデータもある。個人の自由を重んじるがゆえになかなか国民が同じ方向を向かない。

 日本でそのマスクの向こうにある本音はいかがなものであろうか? 

 マスクのほかにもまた気になるものを見つけてしまった。いわゆるリクルートシーズン、入社シーズンと言われるときになると、ビジネス街は同じ色のスーツを着て同じようなかばんを持った若者が街にあふれる。髪型まである種のしきたりがあるのかもしれない。私の知る限りそのような光景が生まれる国はほかにない。自分の会社の色に染まり、忠誠を誓う儀式に近い気がする。しかしそれはそれぞれの組織の独自のカラーではなく、結果的に新卒リクルートという単なる必要のない色分けに過ぎないが、やはり周りを見回して、出る釘として打たれたくないからであろうか? マスクやリクルートスーツはこの精神性を具現化している。

 自分の気持ちとは違う方向でも組織のためなら犠牲にできる行動規範のようなものが日本人の精神の中で養っているのだろうか? 人は自由でありたいという欲求があるはずである。それでも組織の規範を優先する限り人にとって何かメリットがないといけない。そこにはその組織が与えるものが一定の満足レベルを保ち、もしくは保っているような気持になるユーフォリアが存在するのか? そんな中に長く置かれていると帰属意識が生まれ、組織依存、盲従となってしまう危険性がないとは言えない。

 組織が絶対的なものであって自分たちの欲求を満たしてくれる最善のものを提供してくれるに違いないという幻想である。過激な極論をすればその行き着く先は”滅私奉公”という精神性となるのではないだろうか? これは会社組織だけでなく、政治に対しても似たような精神状態になっているのであれば怖い気がする。組織に属する個であっても、おかしいことをおかしいという。正しいことは正しいとちゃんと自分で声に出して言うそんな当たり前のことができる社会がないと民主主義の根幹は瓦解する。

人と違うことは悪いことではない

  私は組織の力も信じているし、そこから多くの素晴らしいものが多く生まれることも知っている。しかしともすれば群れることを過度に好み、周りのもしくは組織のハーモニーを崩さないという観点から異論を唱え、自分の意見を堂々と言うこと遠慮する環境を危険に感じる。そして無気力や無関心が蔓延し、”お上“や帰属する組織が何とか我々を面倒見てくれるからそれについていこうという盲従にも似た状況に陥る危険がある。

 それが続くと組織や社会の持つ同調圧力とも相まって、SNS等で拡散されたものを自分で検証することなく鵜吞みにし、顔のない不特定なひとびとが付ける”いいね”が多いものを追いかけ、自分も“いいね”の呪縛から逃れられなくなる。人と違うことを考えたりしたりすることは決して悪くない。そうでなければ、自分の考えを発言し、革新的なアイデアを想像する能力は自覚することなく衰弱していく感じがしてならない。

連れションというもの

 今はどうか知れないが、連れションは筆者が若いころにはかなり行われていた。男友達の連帯を育てる手段なのか、人と同調することを学ぶ機会なのか不思議な行動であった。確かに人はだれかと同じことをすることで安心度が増し、周りになじめないと不安になる。確かに集団から切り離された個は孤独である。でもそれは決して悪いことだけではなく、自分を分析し、自分の考えを熟成させる工程を作り上げる大きなチャンスであると思う。過度に集団に依存し、そのため集団の中で個の意思をはっきり表明し、違うことを考え行動に移すことができなくなることは退化につながる。同じことを何度も繰り返しながら、そこから何か新しいものが生まれてくれるだろうという虚しい期待と決別しなければ、人は成長せず、画期的なアイデアや発見は生まれない。

 今までは日本を発展させるためにがむしゃらにその目的を達成させるための集団の力が必要であった。そして過去には”ジャパン・アズ・ナンバーワン”と言われるまでになった。しかし成熟した経済になり、恐ろしいスピードでグローバル化が加速し熾烈な競争が起こっている中で、先進国のみならず新興国や途上国もどんどん力を付けていってることは否めない。今やアプローチを変える必要があるのではないだろうか? そのアプローチとは、もっと個の持つ創造性を積極的に養い、それを組織の中で聴き、受け入れる行動環境を作り上げるべきではないだろうか。調和や静謐を重んじる文化は素晴らしい。しかし過度な組織や集団への滅私奉公の

 さらに言うならば、筆者が懸念するのは、いま増え続けている日本に住み仕事や研究をする外国の人たちのことである。その人たちの中には日本独自の文化に自分たちが染まらなければこの国でサヴァイヴできないと感じ、その社会や組織に隷属し、同化しなければならないという観念に支配されているひとたちも少なくないと思う。もちろん自分が住んでいる国の文化や伝統習慣をリスペクトするということは当たり前のことではあるが。でも上述のような観念が過度にこの国にいる外国のひとを支配する状況が存在する限り人種の多様性からは何も新しいことは生まれない。

 ”When in Rome、Do as the Romans do“とは、自分のいる場所の文化や習慣に束縛されるものではない。

 組織の強靭さと個への尊重は二律背反すものではない。しかし今の日本で見るマスクの向こうにある顔は、集団の圧力から個を守ろうとする本能からくる特有のアルカイックなスマイルに満ちている気がする。日本というをワンダーランドの探訪を始めた筆者は答えのでない思考の迷路からなかなか抜け出せないでいる。

せっかく日本に来たのであるから, すでに散り去った桜の古木のある古寺を再見し、独生独死独去独来を今一度考えることにしようと思う。