文・写真=沼田隆一
アメリカ在住40年以上という筆者が、これまで継続的に行われており、実際に体感してきたきたあらゆる「分断」について、その想いを書き綴った。
乱気流の中で迷走するアメリカ
パックス・アメリカーナという言葉を記憶する人は何人いるだろう。「アメリカの平和」と訳され、超大国アメリカの覇権による平和を言う。今や骨董屋の片隅に忘れられた売れ残り品のようなものかもしれない。
第二次大戦後のアメリカは民主主義と自由市場による資本主義の旗手となって、ある意味で世界の人々の生活水準を上げたといってよいだろう。それとともにグローバライゼーションが着実に進んだ。しかし築き上げてきた国際秩序は黄昏時を迎えており、その中で構築されようとしている多国間の関係の行く先には乱気流が待ち構えているようだ。
そんな状況のなか、先進国においてもそれぞれの問題で弱体化が進んでいる。途上国は力強く国を導くリーダーが存在せず、経済不安、社会秩序の乱れが発生している。国家の力が衰え、人々の不満に十分な対処がなされていない。
社会の不満が蓄積され、何の根本的な対策がなされないことに人々は気づくと、自分たちと違う異質なものに、平常では考えられないレベルの敵意をあらわにするものである。神話にも近い理念にいとも安易に逃げ込み、民族や国家といった言葉が台頭し、自分達とは違う集団を“ふさわしくないもの”とレッテルを張る。そういうものから“救ってくれる”と扇動する人間を指導者として担ぎ上げ崇拝することとなる。
過去でも、現在でも、こういった状況ではそのような人間が出現している。その延長線上に資本主義、社会主義にかかわりなく、個人の権利や生活を国が「統制」する動きが出てくるのである。
既存の国際秩序が明らかに破綻している現象として、ロシアのウクライナ侵略があり、世界のさまざまのところに深く影響を及ぼしている。また朝鮮半島はますます不安定な状況になっており、人民の統制を再強化し始めた。海洋進出を図ろうとする中国、メディアには忘れ去られているがアフガニスタンや中東、ミャンマーなどの問題にも何の好転の兆しがない。
まだまだ予断を許さないCOVID-19のパンデミックは、社会経済のみならず、人々の心に深く不安や恐怖、不信といったものを植え付けた。世界レベルで起きている記録的なこの夏のヒートウェーブは、とどまるところを知らない。これらの事象に危機感を高め、人類の将来への警鐘と真剣に受け止める人がどれだけいるのだろうか。まるで地球は伏魔殿の様相を呈してきたように感じる。
外敵からの脅威があると内部は結束するという、一般的な理論を聞いたことがおありだろう。今のアメリカ国内に目を向けると、前述の異質なものに敵意を持つ集団が現れ、国内の結束どころか、前大統領が引き金となったこの国の分断は深まっている。
殺傷能力の高い銃による凶悪な犯罪が後を絶たず、人工妊娠中絶という女性の権利を取り上げるような判決が連邦最高裁判所で出され、女性の権利に対する深刻な後退も起こっている。
根深い差別問題、ロシアのウクライナ侵略によって起こされたガソリン、食物などの価格の高騰など、数えきれない問題が山積みである。こんな乱気流の中でも、アメリカはしっかり舵を取ることができない状態で、迷走飛行中といえる。
銃とアメリカ人
今年に入って殺傷能力の高い半自動小銃による銃撃で、学校にいた幼い子供たちや教師を含む多くの人たちが犠牲になっている。何年も前から学校での銃乱射事件を含む惨事が起こっているのに、真正面からこれに取り組んでこなかったことは事実としてある。毎週のようにどこかで銃乱射事件が起き、犠牲者の数が増え続けている。
5月14日にニューヨーク州で起こった乱射事件は、明らかに白人至上主義者による黒人を狙った事件であった。独立記念日にもイリノイ州で、白人青年の起こした独立記念日のパレードでの銃乱射事件で、子供や老人を含む6人が死亡し、多くの人が負傷した。
保守派の政治家たちは憲法に保障された銃を持つ権利を盾に、厳しい銃規制には消極的で、銃を販売することに問題はなく、精神異常をきたした人間の犯罪とすり替えようとしている。
保守派の支持層が高く、白人至上主義が声高に叫ばれる州での銃規制には、政治家も支持基盤を失いたくないためおよび腰である。また全米ライフル協会(NRA)の大物政治家を巻き込むロビー活動はいまだ強力である。やっと超党派で可決した28年ぶりに銃規制法案も当初の骨子は骨抜きになり、“ないよりはまし”的な中身となってしまった。
銃規制に反対する人たちの多い街では、銃による犯罪をなくするためには一般人がもっと銃を購入し、自衛しやすくするべきだという論法を打ち出している。まさしく昔の西部劇のワイルドウエストの復活である。
この国には市条令で、人々が拳銃を日常的に携行することを認めているところも存在する。銃規制には厳しいニューヨーク市でさえ、健常な市民がライフルや散弾銃を所有することは所定の審査を得て可能である。拳銃もさらに厳しい審査があるが可能である。
その昔カリフォルニアで学生時代を過ごした筆者は、大型スーパーのスポーツ用品売り場で運転免許証の提示だけで、即時ライフル銃を買えることに驚いた記憶がある。
その当時よりは厳しくはなっているが、日本と違いアメリカは連邦法のほかに州法というものがあり、この法的効力は強い。州によっては、農村部や郊外のこともたちは10歳にも満たないころから親に空気銃を与えられその扱いを学ぶ。そのあと口径の小さいライフルなどから銃に親しんでいくのである。
全米いたるところでガンショーというイヴェントがあり、そこで多くの人が集まり銃器を売り買いできるのである。もちろん大人も子供も遊園地に行く気分でこのショーを楽しんでいる。
他州から違法に持ち込まれる銃を、取り締まる有効な手段がないことも問題だ。車、バス、電車によって持ち込むことは難しくないのだから。
インターネットからは、銃器や爆弾製造の情報がいとも簡単に入手できる時代でもある。3D プリンターも安価になり、存在を誰にも知られることがない自家製のゴースト銃が増えてきている。この問題は必ずアメリカだけでなく世界中に広がる。詳しくは触れないが、最近の事案では日本の元首相襲撃は平和な日本においても、銃犯罪が増える可能性を示唆している。
星条旗の見てきたもの
ご存じの方も多いとは思うが星条旗はもともと今のものとは違っていた。星の数は州の数を表すが、国旗が作られたときは最初に独立した州の13個の星であった。アメリカは“新大陸”を求めてやってきた人々が、先住民族や植民地からの独立を”力”で獲得してきたまだ若い国家なのである。
そのため国を創り家庭で常に身近にあった銃というものに対して、特別なセンチメンタリズムがあるような気がする。日本のように今の日本になるまでにはまた別の意味での歴史があるが、最初から国土があり、人がいた国と、アメリカは違う。
アメリカ人のバックボーンには自由、正義、勇気、合理的思考、身は自ら守る、などが歴史の中で人々の心に刷り込まれているようだ。そこには中途半端な日本的な“お互い”もたれかかる甘えは通じない。それ故、人々が銃を持つ権利を憲法が保障しているのである。
自由で陽気に映るアメリカ人の歴史を見ると、自由を獲得するために戦い、先住民族との闘い、独立戦争、奴隷制度廃止、南北戦争、大統領暗殺、人種差別活動家の暗殺などなど、歴史の中に多くの人々の“暴力”が見え隠れする国である。
しかし、そういった多くの血が流れた歴史の中でも、そのたびにその“暴力”による支配に抗い、民主主義を根付かせ、国民一人一人の投票の力で政治を変えてきたという歴史もあることは、この国がこれからの進む方向を決める中で大きな財産であることを忘れてはならない。
根強い偏見―What’s Going on
アメリカはまだまだ人種偏見の国である。表向きではあるが、人種差別に関する様々の法整備が進んでいることは評価できると思う。しかし人々の精神構造まではそう簡単に変わりはしない。
余談だが、150年前に岩倉使節団がアメリカに渡った。その時、大山捨松や津田うめを含む6名の日本人留学生がいた。彼女たちは帰国後日本の女子教育に貢献を果たし、女子の 社会進出や平等もその教育理念に掲げてきた。150年後の今の日本はどうであろう。私には150年経った今も、この点においては人々の意識にそれほど変化があったとは感じられない。
話を戻そう。6月19日はJuneteenthと言われる奴隷解放を記念する祝日である。この記念日は、1865年にテキサス州で奴隷身分とされてきたすべての人々は自由である、とする連邦政府からの命令を、北軍グレンジャー将軍が6月19日に読み上げたことを記念する日である。
この数年のあらゆる差別に反対する声が大きくなってきたこともあり、遅ればせながら祝日になったようである。誰かが声を上げなければ、変化は起きない一例であるといえる。この数年のテレビのCMでも盛んに、やたら白人でない人間が登場する。この振り子の振れかたが何よりも行動を優先する国民性を表しているといえるかもしれない。
1971年にモータウンレコードから発売されたマーヴィン・ゲイの”What’s going on”という曲を覚えている人はいるだろうか? ヴェトナム戦争から帰還した兵士が、祖国アメリカで目の当たりにする人種差別やドラッグ問題を嘆いた歌である。それまでのモータウンレコードは、政治的な曲を出さないという路線を歩いてきていたが、マーヴィン・ゲイのこの曲から路線を変えたとさえ言われている。
音楽も人々の主張が反映されるものとなったのである。私にはこの曲が今のアメリカを見ていると悲しいかなしっくりくる。この曲が色褪せていないからである。あれ以来50年たった今でもアメリカは同じ問題でもがき、何の有効な解決策も見出していない。
西部開拓時代の精神の延長に今がある。しかしいつまでそれを引きずっていくのか?
アメリカの先住民族を追いやった移民の大多数は、ヨーロッパからの白人。奴隷として連れてこられたアフリカやカリビアンの人たち、そして主には大陸横断鉄道の建設のための労働力として来た少数派のアジア人たち。しかしヨーロッパが豊かになり安定すると、白人移民は少なくなり、逆に飢餓や戦争に苦しむ途上国のいわゆる有色人種が、第二次大戦後、急速に増え始めた。
パックス・アメリカーナと共に労働市場のグローバリズムが始まり、いま加速している。つまりこの国は自由で開かれた国であるがゆえに、白人がしたことと同じことを今有色人種がしているのだ。さらに、この先有色人種の人口が白人を上回るという“The Great Replacement Theory”に、一部の白人は非常に危機感を持っている。そして自分たちと違う集団を敵と考え始めているのである。
豊かで自由を謳歌している国が、いまだに自分の権利と利益だけを求め続けるのはなぜなのか。保守層の多いバイブルベルトという地域の急進的な人たちは、バイブルは白人を守るものだと信じているのだろうか。
アメリカ大統領は就任の宣誓には必ずバイブルに手を置く。こんな中にも、この国の持つ大きな矛盾と底知れぬ問題がある気がするのである。
深刻さを増す国の亀裂
そんな中、1月6日に起きた連邦議会襲撃事件の下院特別委員会は、いまだにさまざまの妨害や証言拒否に直面しながらも、いろいろな証言を引き出そうとしている。今回のこの委員会の動きを見ていると、過去にあった大統領弾劾裁判のことを思い出さずにはいられない。
日本ではニクソン大統領の引き起こしたウォーターゲート事件が知られているだろう。あの弾劾裁判の時と、今回の前大統領の問題を比べるのは乱暴なことかもしれないが、大きな違いとして、当時の人は真実を知ることができた。そして知ろうとする国民の力が強かった。また議会は与野党ともにこの問題の真相を解明しようとしたのである。
しかし、今回の状況を冷静に見ると、プロパガンダを執拗に流し、扇動する人がそれぞれインターネットから生まれた複雑なメディアを操る。誰もその情報の確度など気にすることもなく自分に都合のいい情報だけを取り込んでいく。この情報戦争を巧みに利用できる人間がこの国を、いや世界も動かすことになるという構図が出来上がる。
人は怠惰である。自ら真実を探そうとはしない。与えられる情報を自分の都合のいいように取捨選択してしまうのである。そんな世の中でニクソン弾劾裁判の時のような、議会のチェックアンドバランスは完全に機能不全に陥っている。
しかしそんな状況でも、党派超えて何人かの議員は下院特別委員会を立ち上げ、様々な妨害の中でも真実を明らかにすることに努めている。彼らが勇気をもって証言している事実も忘れてはならない。そして、それがどのような結果を導くのかでこの国の行く末が決まる、と言ってもいいのかもしれない。
最近“identity politics”という言葉をよく耳にする。これは人種、宗教、階級、性別,性的嗜好など差別を受ける人々に対して、政治家自身が自分はどうなのかを明らかにし、個人の信条に重きをおいて投票するということ。その流れが保守・リベラル、どちらにおいても起こりうる気がする。
40年以上前に、当時よく使われたセリフ「狭い日本にゃ住み飽きた」を置き土産に、私はアメリカの地を踏んだ。この国はそんな無謀極まりない私を寛容に受け入れ育んでくれた。自分の人生という航海のなかで、この国で学んだことは数多くある。
それだからこそ、私は今この国に対して憂国の情があふれ出ている。私は政治学者でも経済学者でもないが、私自身がこの国を毎日見続けている間に、何らかの澱がたまって噴き出したままの言葉を書いてみた。。
フライト中に制御不能となった飛行機は「スコーク7700」という緊急信号を発する。まだまだ先の見えない乱気流の中を、舵の効きがよくない状態で飛行するアメリカを、私は毎日固唾をのんで見守っている。