ブルネロ・クチネリ氏がビジネス書『人間主義的経営』を通じて提唱する、新しいラグジュアリーとブランドビジネスの概念。

文=中野香織

1953年、イタリア・カステルリゴーネ出身。貧しい農家の家に生まれながらも、ファッションと哲学を愛し、1978年からカシミアニットを中心としたブランド〝ブルネロ クチネリ〟を創業。2012年にミラノ証券取引所に株式を上場し、同社を世界的企業へと導いた。地域を復興し、その労働環境を守る一連の活動によって、イタリア共和国功労勲章を受章

〝エモい〟ビジネス書

 経営者が自らのビジネスを語る本としては、異色である。ガバナンス、戦略、組織、ファイナンスといった意識高めの用語が出てこない。

 代わりに語られていくのは、幼年時代を過ごした農村の環境や家族のことや夢。都会に出た青年時代の発見や失望、哲学の学び。仕事を始めてからの家族や従業員に対する思いや倫理観。ソロメオ村を修復し、コミュニティを建設していくなかでの奇跡的な出会いや仕事のエピソード。ビジネスを通して見る各国の文化。書き留めていた賢人たちの言葉。つまり自伝的なストーリーである。

 しかし、終わりの方にきて、ひとつひとつの経験や感情のすべてが、クチネリが掲げる「人間のための資本主義」に収束し、ビジネスを花開かせていることを全感覚で理解することになる。まるごとの人生の物語から、「人間のための資本主義」のエッセンスを身体感覚に近い形で学び取ることができるのだ。読者の経験や感受性に応じて受け取るものも変わってくるはずである。なんと豊かな語り口だろう。

2018年にイタリアで出版されたブルネロ・クチネリ氏の著書、『Il Sogno di Solomeo(ソロメオの夢)』の日本語訳版が、2021年3月26日に発売。えてして相反しがちな「経営」と「倫理」を両立させるヒントが詰まった、ファッション好きならずとも注目すべき一冊だ。ブルネロ・クチネリ氏が日本人読者に宛てたメッセージも収録

ブルネロ・クチネリ(著) 岩崎春夫(訳)
1,848円※税込(クロスメディアパブリッシング)

経営者とは「人間の尊厳」の守り人である

ブルネロ・クチネリは、イタリア・ウンブリアのソロメオ村に本社をおくアパレル企業の経営者である。1978年に、色鮮やかなカシミアのセーターを製造することから事業を始め、82年にソロメオ村に拠点を移し、この場所を「人間のための資本主義」を実現する場所と決める。朽ち果てていた村の古城を買い取って本社としたり、古い工場を買い取って改修したり、職人のための学校を作ったりといったビジネスの延長での貢献をしただけではない。ソロメオ村の人々の文化的で豊かな暮らしの基盤を作るため、劇場、図書館、公園も作り上げた。

ブルネロ・クチネリ氏の妻の郷里であったウンブリアの小さな村、ソロメオに拠点をもつ〝ブルネロ クチネリ〟。このブランドが提唱する「スポーティシック」な装いにふさわしい、自然と文化が美しく調和した環境だ

 そんなクチネリは、自身を「保護者、管理人、番人」と位置付けている。人間と会社の所属する世界との関係を守り、管理し、育むことこそ経営者の仕事という自覚があるのだ。

 「保護者」が守る第一のものが、「人間の尊厳」である。人間の尊厳を第一に掲げ、人間の手仕事の価値を磨き、自然環境に投資することによって手仕事の価値をさらに高め、働くすべての人を幸福にするという好循環を生んでいる。与えれば与えるほど大きな利益を生むというクチネリの経営は、広く海外からも注目され、大十字騎士勲章を受勲するほか、数々の賞を受賞している。

 

ラグジュアリーとは、正しき資本主義から生まれる

 こういう経営姿勢を知ると、ブルネロ・クチネリの服がなぜあれほど心を揺さぶるのかも納得できる。倫理的にも経済的にも尊厳を大切にされた職人が責任感をもち、彼らの創造性が自由に誇らしく発揮されているからなのだ。30時間以上もかけて手作業で仕上げられたオペラニットの存在感は、服の機能とか価格といった現実的な問題をまったく無意味にしてしまう。別格のアートのような迫力を湛えるニットに、かくも精緻な手仕事をやってのける人間のすばらしさを重ね見て、畏怖の念さえ起きてくることがある。

ソロメオ村の本社では、約900人ほどの社員が働く。なかでも「アルティジャー二」と呼ばれる熟練した職人たちの存在は尊重され、一般職よりも高い収入で遇しているという。2013年には職人養成学校もこの地に設立。技術と感性、教養を併せ持つ若手職人を育成し、同社で受け入れるとともに世の中に送り出している

 ここ30年くらいの間に資本主義が暴走し、異様なまでの富の集中と格差問題が生まれ、環境問題が切迫した。こうした問題の元凶が、資本主義そのものにあるかのように批判されている。

 だが、クチネリは資本主義を信じている。資本主義を正しく使うことで、働く人々を幸せにし、次の世代へ良い世界を引き渡していけると信じている。資本主義は、たとえていえば車のような道具であり、乗る人間が間違った乗り方をすれば事故も起きるが、知恵を絞って正しく乗りこなせば、人間を幸せにできるはず、と。

 人を幸福にするための、資本主義の正しい使い方。その使い方を知るための基本的な心構えがちりばめられたこの本は、未来への希望の書でもある。

 全体を通して教えにあふれているのに教条主義的なところが全くなく、読みながら心が洗われ、癒されていく。すべてのもの、あらゆる現象は何らかの形でつながっており、だからこそ自分から働きかける行為や投げかける感情が、何倍にも大きくなって自らに還ってくる。そんな気づきへも促してくれる。

 個人的にもっとも衝撃と共感を覚えたのは、クチネリが引用するマルクス・アウレリウスのことば、「人生は三幕あれば十分である」。クチネリはその言葉からこのように考えるのだ。「自分に与えられた時間も、自分の行いも、自分だけの所有物ではない」。たしかに、そのような視点をもてば、自然に反する欲とも無縁でいられ、日々の仕事に謙虚に向き合えるし、退場の時も心穏やかでいられるだろう。心安らかな悟りの感覚を伴う読後感を与えてくれるという意味で、本書はビジネス書であるとともに、宗教書のようでもある。

 人文学としてのビジネス書という新しいジャンルの誕生である。