文=今尾直樹 写真=山下亮一
5.2リッターV12ツイン・ターボ
純白のアストン・マーティンDB11AMRのドアを開ける。そのドアは、ほんのちょっと斜め上に開く。運転席に乗り込み、ダッシュボードに5つ並んだ丸いスイッチのうちの右から3番目、左からでも3番目、つまり真ん中の、ちょっとデカいスイッチを押す。
キュゥルルルッというスターター・モーターの回る音がして、爆音が轟く。5.2リッターV12ツイン・ターボが目覚める。
う~む。量産車が発する、世界でもっともマスキュリンなサウンドのひとつだ、と私は思う。とかくジェンダーについて、あれやこれや言われる世のなかだけれど、DB11AMRのV12サウンドを表現するのにこれほど似合うことばはない。男らしい。
DB11は2016年に送り出された現在のアストン・マーティンの主力モデルである。そもそもはV12で登場し、のちにV8が加えられた。さらにV12は2018年にAMRの名称が与えられて再デビューし、DB11のフラッグシップとして、その存在をよりはっきりさせている。
AMRとは、FIA世界耐久選手権に参戦しているAston Martin Racingを意味する。ようするに、耐久レースから得たインスピレーション、もしくはテクノロジーを既存のモデルに反映させ、より性能を研ぎ澄ませた仕様であることを示すサブブランドなのだ。
DB11AMRは、DB11のV12モデルをベースにしている。AMR化にあたって、5.2リッターV12は最高出力、最大トルク、ともにおよそ30psと30Nm強化され、639psと700Nmを発揮する。雷鳴のようなエグゾースト・ノートはAMR用に再調律されている。
東京・青山一丁目の交差点の北青山側にあるアストン・マーティンでDB11AMRに乗り込んだ私は、霞ヶ関から首都高速にあがり、横浜までの、短くも印象的なドライブを楽しんだ。
サヴィル・ローのスーツのよう
乗り心地の快適なことは、英国紳士のGTカーにふさわしい。ビスポーク仕立ての、よく馴染んだサヴィル・ローのスーツのように、身体にピッタリしながらも動きやすい。
エンジン、ステアリング、サスペンションを統合制御する、いわゆるドライブ・モードというものがDB11にも装備されている。それはGT、S(スポーツ)、S+(スポーツ・プラス)の3種類の設定があり、サスペンションには電子制御の可変ダンパーが組み込まれている。
少なくともDB11AMRは、AMRといってもサーキット走行用に仕立てられているわけではないことが、しなやかな乗り心地から察せられた。前255/40、後ろ295/35という前後異形の、ともにZR20インチというサイズのブリヂストン・ポテンザS007が、既存のDB11そのまま、ということもからも明らかだった。S007というのはもともとDB11用につくられた超高性能スポーツ・タイヤのなかでも、快適性を意識したものだから、である。
高速道路にあがって、モードをS+に切り替える。フロント・ミドに搭載された5.2リッターV12ツイン・ターボは、自動的に8速オートマティックのギアが1速下がって回転が上がり、エグゾースト・ノートのサウンドもひときわ大きくなる。乗り心地は引き締まり、ステアリングはやや重くなる。戦闘態勢に入って、男っぽさを増す。目地段差でショックを拾う。でも、ボディがしっかりしているから、直接的な突き上げは伝わってこない。
80km/hで巡航している。8ATは6速ギアに入っていて、2000rpmぐらい。仮にそこから踏み込むとすると、DB11AMRのV12は野獣のような雄叫びをあげて、ドライバーを桃源郷へと誘う。イタリアのスーパーカーと異なるのは、女性の姿が見当たらないことだ。テノールのいない、バリトンとバスからなる男声合唱団が、ぐおおおおおおおんッと高らかに吠えまくる。
アクセル・ペダルをゆるめると、ぱんぱんぱんッというバックファイアを思わせるサウンドを発しながらATのギアが2段落ち、ギアが落ちるたびに、ぐおん、ぐおんっというライオン・キングの咆哮が聞こえてくる。ダブル・クラッチでエンジンの回転を合わせる、ブリッピングの音だ。
すばらしい。
好き。
多角形に角ばったステアリングホイールは、3時と9時の位置のグリップがアルカンターラになっている。バックスキンのような人工素材のこれは乾いた触りご心地がハードボイルドで、不思議な形状にもかかわらず、操作していて違和感がないのは、ステアリングのギアが速度に応じて変わる可変ギアレシオで、かつギア比がクイックで、グルグル回す必要がないからだ。
生粋のブリティッシュ・サラブレッド
「企業としてのアストン・マーティンは、その60年ほどのさして長くはない歴史のうちに、五度も倒産の憂き目を見たが、その度にこの生粋のブリティッシュ・サラブレッドの存続を希う、熱心な資本家が救いの手を差しのべ、文字どおり灰の中から不死鳥の如く蘇った。」
というのは、小林彰太郎さんがお書きになった『世界の自動車12 アストン・マーティン アルヴィス インヴィクタ』(二玄社)の冒頭のことばである。同書は1980年、ちょうど40年前に発行されたものだけれど、この状況は40年後のいまも変わっていない。
1913年にライオネル・マーティンとロバート・バムフォードというふたりの裕福な若者によって設立されたアストン・マーティンは、アマチュア・モータースポーツでの勝利によってその名を高めた。ところが、みずからもステアリングを握るレーシング・ドライバーで、スポンサーだったポーランド貴族のズボロウスキー伯がレース中の事故で亡くなり、事態は暗転。その後、アウグストゥス・チェザーレ・ベルテリなるイタリア人がこれを引き継ぎ、黄金時代を築くも、その生産台数に対して純正部品にこだわる等によって財政難となり、戦後、ついに売りに出される。
1947年に買収したのがイギリス有数の起業家だったデイヴィド・ブラウン(David Brown)で、これがDBという車名の由来となる。ブラウンは祖父が興したギアの製造会社を引き継ぐ一方、トラクター事業で大成功して富を築いた。アストン・マーティンを購入したちょっと後に、高級車メーカーのラゴンダも買収する。目的は、主任設計者のW.O.ベントレーが設計した6気筒DOHCを手に入れるためだった。ここにいたって、軽量スポーツカー・メーカーだったアストン・マーティンは、大排気量の高性能GTづくりへと舵を切ったのだった。