文=今尾直樹
(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
本当のお話をもとにした物語
ハイ、みなさん、こんにちは。今日は2020年のお正月映画として日本で公開された『フォードvsフェラーリ』についてお話したいと思います。
『フォードvsフェラーリ』、これは1960年代に起こった本当のお話をもとにした物語なんですね。監督はジェームズ・マンゴールド、主演はマット・デイモンとクリスチャン・ベール。映画は、マット・デイモン扮するキャロル・シェルビーが闇のなか、アストン・マーティンDBR1いうレーシング・カーを走らせている幻想的なシーンから始まります。59年のル・マン24時間耐久レース。キャロル・シェルビーはこの年、アストン・マーティンで見事に優勝して、アメリカ生まれのアメリカ人ドライバーとしてはふたりめの快挙を成し遂げます。けれども、このひと、心臓が悪くて、「さあ、これから」いうときにドライバーを引退せざるをえなくなる。
キャロル・シェルビーはまだ30代半ばです。ドライバーをやめて、「なにしよう」、考えた。実はこのひと、以前からアメリカ製の大きな大きなV8エンジンをヨーロッパの小さなスポーツカーのシャシーに載せたら、スゴいもんができる、と思っておった。それで、その話をフォードに持っていった。そしたら、フォードがオッケーいうたんですね。これが62年のことです。
このとき、シェルビーの相手をしたのがリー・アイアコッカいう、60年にフォード部門のゼネラル・マネージャーに、36歳の若さで抜擢されたイタリア系のアメリカ人でした。のちにフォードの社長になり、そのあとクライスラーの社長にもなる、マーケティングの天才です。
天才セールスマンのアイアコッカは、シェルビーに自分と同じ、セールスマンの才能を認めた。気に入ったんですね。それで、とりあえずお金を渡すことにして、引き取ってもらった。面会時間はわずか10分程度だったそうです。
オープン・スポーツカーにフォードV8を
(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
キャロル・シェルビーは早速、イギリスに行き、ACいう小さな会社に、そこの会社がつくっていたエースいう、小さな2シーターのオープン・スポーツカーにフォードのV8を押し込んだスポーツカーをつくってもらった。そして、コブラと名づけたこの、いわゆるアングロ・アメリカン・スポーツカーでレースに出て、当時のアメリカのゆいいつのスポーツカー、強い強いスポーツカーだったシボレー・コルベットに勝って勝って勝ちまくるんです。
このコブラを開発するテスト・ドライバーをつとめたのが、ケン・マイルズ。ケン・マイルズ、映画ではクリスチャン・ベールが演じています。バットマンを演じたこともある、太ったり痩せたりする俳優さんです。
本物のケン・マイルズはこのとき、45歳。中年のおっさんです。シェルビーの5歳年上。1918年、イギリスのバーミンガム近くの生まれで、バーミンガムいうのはイギリスの自動車産業の中心地です。ですから、若い頃から自動車が身近だった。自動車のメカニック、整備士になる学校に通ったりもしていて、第二次大戦のときはイギリスの戦車兵として、あのノルマンディ上陸作戦にも参加した。
そして、戦争が終わってからしばらくしてマイルズはアメリカのカリフォルニアに移住して、カリフォルニアのレースに、MGいうイギリスのスポーツカーを自分で改造して出場して、連戦連勝、地元では有名な存在になっていた。マイルズは55年にMGのワークスでル・マンに出ているんですね。でも、このときは12位。国際的な知名度を得るほどには成功していないんですね。
ウィキペディア、まあ、ウィキペディアすごいですねぇ、なんでも書いてありますねぇ、ウィキペディアによれば、ケン・マイルズは63年にキャロル・シェルビーと知り合って、シェルビーがコブラの製造とレース活動のためにつくったシェルビー・アメリカンで、テスト・ドライバー、テクニカル・アドバイザーとして働くことになる。
T型フォードいう、馬なし馬車みたいなクルマ
映画『フォード vs フェラーリ』は、アメリカの大衆車メーカーのフォード、T型フォードいう、馬なし馬車みたいなクルマしかつくったことのない、というたらいいすぎかもしれません、けれども、スポーツカーなんかつくったこともないフォードが、絶対王者、レースに勝つためにしかクルマをつくっていない、ヨーロッパの貴族的なフェラーリを倒そういう、そういう無謀な戦いのドラマを描いています。
映画に出てくるフォードの会長のヘンリー・フォード2世は、単なる3代目の、エバったボンボンでしたが、実際のヘンリー2世はそうではありません。1917年生まれのこのひとは、おとうさんのエドセルが第二次大戦のさなかにがんで亡くなり、ヘンリー、フォード・モーターの創業者ですね、おじいさんは80歳を過ぎて高齢で心許ないいうんで、海軍から呼び戻されて28歳でフォードのトップを引き継いだ。このとき、会社はボロボロで倒産寸前。ヘンリー2世はそれを見事に見事に立て直して、そしてもっともっと会社を大きくしようと思って、グローバリゼーションを推進したんです。ヘンリー2世はヨーロッパでフォードを売るために、フェラーリを会社ごと買おうとさえした、スケールの大きな大きな経営者、ビジネスマンでした。
そして、単なる金儲けだけの男でもありませんでした。ヘンリー2世は、63年、パリのマキシムで開かれたパーティでイタリア人の美女、クリスティーナいう36歳の美女と恋に落ちてしまう。このときヘンリー2世は40代半ば。離婚などとんでもない時代、奥さんとのあいだに3人の子どもがいる、マジメなマジメな男が、すっかり骨抜きにされてしまう。
ヘンリー2世がフェラーリを会社ごと買おうと思っていたちょうどその頃、イタリアの美女と恋に落ちたというのは、なにかしら関係があるかもわからんね。
一説には、イタリアのフィアットの総帥ジャンニ・
別にフォードを売りたいわけではない
その理不尽な要求は、そもそもヘンリー2世から出ているわけですけれど、ともかく、シェルビーとマイルズはレースに勝ちたい、レースに勝って、自分のすごさを世界に見せつけたい。別にフォードを売りたいわけではありません。フォードの連中がレースに勝ちたいのは、レースに勝ってクルマを売るためです。そのために、ヘンリー2世はお金をじゃぶじゃぶつかった。何百万ドルと。これは超大国アメリカがヨーロッパのレースに侵攻した物語でもあるのです。
映画では「90日でフェラーリを倒す」とシェルビーがマイルズにいっていますが、実際にはかないませんでした。63年5月にフェラーリとの買収話に決裂したフォードは、単独でル・マンに出場することを決め、翌64年にフォードGT、通称フォードGT40で、初めてル・マン24時間レースの舞台、サルテ・サーキットに乗り込みます。そして、結局、レースの序盤で速さは見せたものの、出場した3台すべてトラブルでリタイヤし、フェラーリのル・マン5連覇を許してしまいます。
1964年、日本は高度経済成長の真っ只中で、東京オリンピックの年です。5月、初夏には第2回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開かれた。若者向けの週刊誌『平凡パンチ』が創刊され、式場壮吉駆るポルシェ904と、生沢徹のプリンス・スカイライン2000GTの対決で、自動車レースに日本中の若者が熱狂します。日本にモータリゼーションが生まれ、日本中が自動車に夢中になったんですねぇ。
アメリカのモータリゼーションはもちろんすでに進んでおりましたけれども、ベビー・ブーマーズ、戦後生まれの若者たちが自動車レースとスピードに夢中になった。このベビー・ブーマーズを当て込んで、リー・アイアコッカがつくったのがフォード・マスタングです。