レースとロックンロールの時代

 初代マスタングの発表は1964年。64年いうたら、ビートルズが初めてアメリカに上陸した年でもあります。スピードとレースとロックンロールの時代です。

 64年、キャロル・シェルビーはまだフォードGTのプロジェクトとは無関係で、コブラでル・マンにも出ていて、総合4位、GTクラス優勝を遂げる。シェルビーがアイアコッカを訪問してから、わずか2年での快挙でした。

リー・アイアコッカが産んだフォード・マスタング。手前は、ジョシュ・ルーカス演じるレオ・ビービ。ヘンリー2世の信任厚く、ル・マン・プロジェクトの責任者をつとめた。映画では主人公たちの敵役

(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation

 そこでフォードは、キャロル・シェルビーにフォードGTの開発とレース・マネジメントを任せ、ここからケン・マイルズがフォードGTのテスト・ドライバーもつとめることになります。

 フォードがフェラーリを打ち負かすのは、結局66年まで待たねばなりません。4.7リッターのV8を7リッターに載せ替えた新しいレーシング・カー、フォードGT40 Mk2を3つのチームから8台も送り込んで必勝を期し、ついに栄光のル・マンの表彰台を1位から3位まで、フォード、フォード、フォードで独占するのです。

 映画『フォード vs フェラーリ』では、こうした実話に、省略と強調を織り交ぜながら、キャロル・シェルビーとケン・マイルズの友情と努力と勝利の人間ドラマを描きます。それと苦い結末を。

 当時のレースではほんとうに多くのドライバー、観客、関係者が亡くなりました。自動車レースはつねに死とともにあった。エンツォ・フェラーリは、息子のピエロに「ドライバーとは仲よくなるな」といい聞かせていたそうです。「明日、死ぬかもしれないから」と。

 

1969年までル・マン4連覇を成し遂げる

 600万ドルともいわれる予算を投じて、ヘンリー2世はついにフェラーリをやっつけ、それからフォードは69年までル・マン4連覇を成し遂げます。ヘンリー2世はヨーロッパでフォードを成功させるためにル・マンに勝とうとしたといわれています。でも、本当にビジネスのためだけだったのでしょうか。

 65年、アイアコッカはマスタングの大成功で社長に昇進、ヘンリー2世はクリスティーナと再婚します。ル・マンの会場にヘンリー2世とともに現れたクスティーナは、私はイタリア人だから、といってフェラーリのパドックを訪問し、フェラーリの勝利に1000ドル賭けたという逸話があります。ヘンリー2世としては悔しかったでしょう。

1966年の1、2、3フィニッシュ。レオ・ビービがPR効果を狙って、揃ってゴールするように命じた。それが、ル・マンの独自ルールによってマイルズには気の毒な結果となる。そうでなくとも、ゴール直前、マイルズが焦ってアクセル・オフしたという説、マクラーレンが勝ちたいがために約束を破って前に出たという説もある
Photo:Ford

 1966年は、クロード・ルルーシュ監督の「男と女」、ジョン・フランケンハイマー監督の「グラン・プリ」が公開された年でもあります。映画も自動車も19世紀末に発明されて、20世紀に大いに発展しました。1960年代はこのふたつの黄金時代だったというひともいます。

 そういうわけで、『フォード vs フェラーリ』、機会があったら、ぜひ観てくださいね。そして、この歴史についてももっと知りたいひとは、原作となった『フォード vs フェラーリ 伝説のル・マン』(A・J・ベイム著/赤井邦彦 松島美恵子訳/祥伝社)を読んでみてください。さらに、この原作をもとにしたドキュメンタリー『24時間戦争』がアマゾンのプライムビデオで観られます。

1966年のル・マンのホンモノのスタート・シーン。フランス国旗を持っているのはヘンリー・フォード2世。なんと、スターターをつとめた。1番をつけたGT40 Mk2に駆け寄るドライバーがマイルズ。ドアがうまく閉まらなかった、というエピソードは実話で、次の周にピットイン。その後、映画でも描かれているように猛追した。いやあ、映画ってのは本当にいいですねPhoto:Ford