ロールス・ロイス ファントム・センテナリー

ロールス・ロイスの工房へ

「是非、グッドウッドのロールス・ロイス本社にお越しください。ご招待申し上げますよ」

 トルステン・ミュラー-エトヴェシュCEO(当時)からそんな誘いを受けたのは、たしか2019年のこと。ミュンヘンで開かれたBMWグループのワークショップでミュラー-エトヴェシュCEOをインタビューしたところ、思いのほか話が弾んだことがきっかけだった。

 そのときは「喜んで伺います」と答えたが、私のグッドウッド訪問が実現するまで、それから実に6年の歳月を要した。

ウエストサセックス州グッドウッドにあるロールス・ロイスの本社

 いや、私は昨年8月にロールス・ロイス本社を訪ねる好機を手に入れたが、そのときは事情があって工場見学は許されなかった。私が見たかったのは、このとき訪れた5つ星ホテル並みに豪奢なロールス・ロイスのゲストルームではない。職人たちが日々汗を流す“工房”の様子を見たかったのだ。そこを取材することで、ロールス・ロイスの神々しいまでの美しさを理解できるのではないかと期待していたのである。

 しかし、そのチャンスをすんでのところで逃した私がいよいよ工場の内部に足を踏み入れるまでには、そこからさらに1年を費やすこととなった。

 念願叶ってついに訪れたロールス・ロイスの生産現場。それは自動車工場というよりもアトリエと呼んだほうが相応しい、モダンで清潔な空間だった。もっとも、職人たちが取り組む仕事自体は、ラグジュアリーブランドのインテリア制作現場でよく目にする光景とさほど変わりはない。ただし、ひとりひとりの職人が、ていねいに時間をかけ、自分に任された仕事に誇りを持って取り組んでいる様子が印象的だった。

今回発表されたファントム・センテナリーのドアパネルはロールス・ロイス史上最も精緻な木工細工とされる

 そうしたなかで、とりわけ感慨深かったのがスターライト・ヘッドライナーを製作している現場だった。

44万のステッチで構成されているファントム・センテナリーのヘッドライナー。グッドウッドの養蜂場のミツバチも表現されている

 本来はオプション扱いでありながら、現実にはほぼすべてといっても過言ではないくらい多くのロールス・ロイスに装備されるスターライト・ヘッドライナーは、無数ともいえる光ファイバーで導いた灯りを天井(ヘッドライナー)に散りばめることで、まるで満天の星空のような光景をキャビンに再現するもの。実は、ひとつひとつの灯りの位置と光の強さは厳密に決められていているのだが、束ねられた光ファイバーのなかから1本ずつ順にヘッドライナーに貼り付ける作業はすべて手仕事で行われる。そこに、どれだけの根気と高度な職人技が必要になるのか、私には想像もできなかった。

ファントム・センテナリーのスターライトヘッドライナーはクワの木をモチーフとしている。ヘンリー・ロイス卿がウェスト・ウィッタリングの自邸の庭のクワの木の下で、チーフ・エンジン・ドラフツマンのチャールズ・ジェナー、実験部門を支えたテストドライバーのアーネスト・ハイヴスと共に写っている写真がモチーフだという

「いくつもの自動車ブランドがスターライト・ヘッドライナーを製作しようと試みてきました」 工場見学のガイドが語り始めた。「それでも、成功したブランドはこれまでにありません。ただ1社、ロールス・ロイスを除いては……」 その言葉には、強い自信と誇りがみなぎっているように思えた。

ロールス・ロイス ファントム・センテナリー

ファントム100周年を讃える25台だけのプライベート・コレクション

 そうしたロールス・ロイスの匠の技がふんだんに盛り込まれたファントムが発表された。その名をセンテナリーという。

 センテナリーはファントムの100周年を記念して制作されたプライベート・コレクションである。プライベート・コレクションは、ロールス・ロイスが誇るビスポーク部門が、自分たちの持てるデザイン力とクラフツマンシップを総動員して作り上げる限定モデルのこと。通常、ビスポーク部門は、顧客のオーダーに沿ったカラーや素材で1台のロールス・ロイスを作り上げるが、プライベート・コレクションだけは例外で、彼ら自身のアイデアとセンスでカラーや素材などをチョイス。ときには、独自のアイデアを実現するために新たな工法を生み出すことさえある、こだわりに満ちた作品がプライベート・コレクションなのである。

スピリット・オブ・エクスタシーと呼ばれるフィギュアは、ファントムに初めて装着されたスピリット・オブ・エクスタシーを参考に、強度を確保するために18金で鋳造し、その後24金でメッキ。ロンドンの貴金属品位証明機関(Hallmarking & Assay Office)にて「Phantom Centenary」のホールマークを受けている。 基部はハンドメイドでホワイトのガラス・エナメルで仕上げ

 しかも、ファントムはロールス・ロイスが誇るフラッグシップモデル。その100周年を祝って企画されたのがセンテナリーなのだから、そこに用いられる素材や技法が選りすぐりなものであるのは当然のこと。今回も、これまでオートクチュールだけを手がけてきたファッション・アトリエと共同で、耐久性に優れ、しかも緻密なスケッチが再現できる特別なファブリックを開発したり、ウッドにレーザーエッチングを施したレリーフを立体的に湾曲させてドアトリムとして用いるといった、常人には想像さえ難しいアイデアがセンテナリーには盛り込まれたのである。

繊細なレリーフが彫られ、湾曲したウッドパネル
ドアパネルはウッドからレザーへとつながる

 そうした高度なクラフツマンシップにも感心させられたが、個人的により強く印象に残ったのが、センテナリーに採用されたスケッチやデザインが見事なことだった。

リアシートのデザインスケッチ

 なかでも、ロールス・ロイスのゆかりの地や歴代ファントム、そしてファントムの各世代を代表する7人の著名なオーナーなどを描いたとされるリアシートのスケッチには特別な感銘を受けた。その躍動感がもはや芸術の域に達しているのはいうまでもないが、これが実は社内のデザイナーによって描かれた作品だと聞けば、その驚きはさらに増すはず。実は、昨年発表されたプライベート・コレクションのシンティラでもデザインの優れた芸術性に心を奪われたが、今回のセンテナリーもそれに優るとも劣らないほどの美しい作品だと感じた。

座席のアートワークは三層で構成されており、第一層は高解像度プリントで描かれた背景で、ロンドンのコンドゥイット・ストリートにあったロールス・ロイスの最初の拠点からヘンリー・ロイスが油彩で描いた南仏の風景まで、ファントムの歴史を象徴する場所や思い出の品々を表現。第二層も高解像度プリントで構成され、歴代ファントムが緻密な筆致で描かれる。最上層は刺繍でファントムの各世代を代表する7人の著名なオーナーを抽象的に表現している

 それだけではなく、繊細な色遣いと抽象的な模様が描かれたシンティラとは異なり、センテナリーでは力強い存在感が具象的な意匠によって表現されていることも印象的である。聞けば、シンティラとセテナリーは、ともにビスポーク部門に籍を置くうら若きふたりの女性が力を合わせてデザインした作品だとか。おまけに、彼女たちはまったく個性が異なるシンティラとセテナリーを、同時並行的に制作していたというのだから恐れ入る。

ロールス・ロイス ファントム・シンティラは2024年に発表されたプレイベート・コレクション

 しかも、彼ら・彼女たちが作ったプライベート・コレクションはロールス・ロイスの上顧客から高く評価され、極めて高価であるにもかかわらず限定数は瞬く間に完売になるという。センテナリーも25台が製作されるが、そのすべてが、発表の時点で顧客が確定しているという。

 こうした成功の影には、顧客との密接なコミュニケーションを心がけ、ときには彼らの自宅に足を運んでどんな芸術、どんな調度品に関心を抱いているかまでリサーチするといった努力が隠されている。そうした経験に基づいて製作されたプライベート・コレクションであればこそ、ロールス・ロイス・ファンからの熱烈な支持が得られるのである。