映画『遠い山なみの光』 悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ) ©2025 A Pale View of Hills Film Partners

近年の邦画ランキングは漫画原作の作品が上位を独占するなか、ここに来て小説原作の映画が話題だ。吉田修一の小説を原作とする映画『国宝』は、興行収入150億円、観客動員数1000万人超を記録。第98回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表に選出されるなど、その勢いは止まらない。観る前に読むか、観てから読むか? 今秋注目の映画原作3作品をご紹介。

カズオ・イシグロ長編第一作。自身のルーツを確認する、触れてはならない箱

『遠い山なみの光』(新版)
著者:カズオ・イシグロ
訳者:小野寺 健
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)
発売日:2025年6月2日
価格:1,342円(税込)

【概要】
イギリスに暮らす悦子は、娘を自殺で失った。喪失感に苛まれる中、戦後混乱期の長崎で微かな希望を胸に懸命に生きぬいた若き日々を振り返る。新たな人生を求め、犠牲にしたものに想いを馳せる。

原爆投下後の長崎と現代の英国カントリーサイド、二つの時制を行き来

 ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロ(石黒一雄)が、文壇に登場したばかりの1982年、第一長編として発表したのがこの『遠い山なみの光』である。イシグロは5歳のときに両親に連れられ渡英した。長崎を舞台にしたのは、自分のルーツの確認という意味があったのかもしれない。

 とはいえ、主人公は少年ではなく、イシグロの母親世代の悦子。物語は二つの時制を行き来する。一つは若い悦子が妊娠中のお腹をかかえて歩く原爆投下後の焼け跡長崎、もう一つは、未亡人になった悦子が部屋数を持てあましながら一人で暮らす英国カントリーサイドの静かな村である。

 悦子には二人の娘がいる。連れ子の景子、再婚したイギリス人の夫との間に生まれたニキ。ニキという名前は、過去と訣別したいかのように英国風の名付けに固執した悦子と、東洋的な音の響きを望んだ夫との妥協の産物だった。

 ニキは実家から独立し、ロンドンで政治学を専攻するボーイフレンドや才能ある女性詩人など気の合う仲間達と自由を謳歌している。ニキにとって実家のある村は、退屈な場所でしかない。

 そんなニキが、母悦子の元を訪ねるのがこの物語の発端である。訪問二日目にニキはようやく母に切り出す。「わたしが(お葬式に)出ると思った?」 母は言う。「思わなかったわ」「ぜったい来ないと思っていたわ」

年月がもたらすある女性の人生と価値観の変動

 ニキの姉の景子が、マンチェスターの部屋で首を吊り、自ら命を絶ったのだ。第二次世界大戦で日本の特攻という異様な精神を知った新聞は、日本人には自殺願望があるとし、それですべての説明がつくと言わんばかりの記事を書いた。

 景子は6年前に家を出た。出る前の2、3年間は自室にこもり、家族を閉め出し、友人は一人もいなかった。かろうじて母と娘の間に意思疎通らしきものがあったとすれば、2,3週間に一度洗濯物を入れた袋がドアの前に置かれ、悦子が洗ってまたドア前に置いておくときくらい。

 悦子が料理を盛った皿を台所に置いておくと、景子は取りに来て、また2階の自室にこもる。気まぐれに居間に下りてくることもあったが、そういうときは夫やニキの間に緊張が走り、必ずケンカになった。

 景子の自死を知らされたとき、衝撃を受ける前に悦子の頭に真っ先に浮かんだのは、友人が一人もいなかったあの子は、発見されるまで何日ぶら下がったままだったのだろうということだった。なんと痛ましい親の想像であることか。

 ニキは言う。姉妹だからといって仲がよかったわけではない。自分は景子に会うと必ず惨めな思いをしていた。思い出といえばそれだけ。「それでも(姉の自死は)悲しかったわ」と真情を吐露し、ぎこちなく母と悲しみを共有しようとする。

 悦子はこれをきっかけに、遠い昔、長崎で数週間だけ交流のあった佐知子と、その娘万里子の姿を思い出す。佐知子は東京から、金持ちの伯父を頼って長崎に流れてきた。しかし伯父の屋敷も出て、悦子夫妻の住むアパートから見える川縁の粗末な家を借りる。佐知子は万里子を連れて東京から追いかけてきた恋人のフランクとともに彼の祖国米国に渡ろうとしていた。

 しょっちゅう海外に出ていた英語に堪能な父親を持つ佐知子は東京の嫁ぎ先で、英語を学ぶことを禁じられた。英語が敵性語と呼ばれた時代。米国のお土産として父親が買ってきてくれたディケンズの『クリスマス・キャロル』も捨てられた。

 そんな佐知子にとって、アメリカに渡ることは夢だった。いや、幼い万里子に与えたい希望だった。向こうに行けば万里子の可能性は広がる。会社員になることもできるし、お絵描きが好きなままだったら画家になることもできる。佐知子は悦子に言う。「日本では女はだめ。日本にいたんじゃ、将来の希望なんかないじゃない?」

 戦後は新しいものが旧いものに取って代わろうとしていた価値観の変動期。自分がどちらの側かで、生起される感情は違う。新興世代にとっては希望であるものが、取って代わられようとする側にとっては、怨嗟や公憤といった感情になる。

 女達が新しい時代を呼吸しようとしていた中で、悦子の夫の父親は、取って代わられる側だった。子供の教育に一生を捧げてきた彼は、戦後の風潮に憤慨している。「規律とか忠誠心、こういうもので昔の日本はまとまっていた。目上の人間にたいしても、国にたいしても」「いまの学校教育はじつに異常だよ」「昔の日本には精神があった。それが国民を団結させていたんだ」

 家父長制を善きものと信じる義父に言わせれば、母親が父親の言うことを聞かず、自分のおじいさんに顔が似ていると言う理由で吉田(茂)に投票する風潮も、「何たるざま」ということになる。

 この義父は、戦中は同僚を密告し、戦後はどうやら公職追放にあったらしいことがほのめかされているが、夫より前に義父と知り合いだった悦子にとっては、とてもいい人だった。

 ニキの女友達が子供を産んだと聞いて、悦子がその人は結婚してるのと何気なく聞くと、ニキは結婚しているかどうかなんて関係ないと、いきり立つ。ニキは高らかに言う。「子供とくだらない夫に縛られてみじめな人生を送っている女が多すぎるわ」「つまらない一生を送るだけじゃみじめじゃない?」

 本書は現在の英国と過去の長崎を往復しながら、悦子という女性が歩んだ人生を、年月という通奏低音も響かせながら、浮かび上がらせる。

書かれなかった部分に、真の物語が潜む。最も映像化にむかない文芸作品

 それにしても、悦子が呪文のように繰り返す「むしかえしてもしかたがない」とは、一体どういうことだろう。物語は痒いところに手が届かない。佐知子と万里子の渡米という旅立ちも、悦子と前夫との別れも、再婚相手となるイギリス人と長崎で知り合ったなれそめも、悦子が景子を連れて故郷も祖国も捨てる決意に至った過程も、「むしかえしてもしょうがないこと」として、一切触れられない。

 触れてはならない箱を開けるヒントは、本書のラスト数十行手前にあった。長崎時代の幸福な思い出として置かれた一文。その一文を見て、私は思わず目を疑った、人名の取り違え、いわゆる誤植ではないか、と。

 本書は、書かれなかった部分に、真の物語が潜んでいる。あの一文が誤植でなければ、悦子はまったくもって「信用できない語り手」だ。この書きっぷり、イシグロではなくハラグロだ。

 思えば、いくつかの手がかりはあった。生まれた子が女の子だったら義母の景子という名をもらって付けようかしらと言って義父を喜ばせた悦子、孤独で一人遊びをしながら、フランクを豚と呼んで嫌っていた万里子、幼い万里子を探して土手を歩く妊娠中の悦子の脚に引っかかる縄。

 英国人の夫は、景子とニキは正反対の性格をしていると言っていたが、悦子にとって二人はよく似ていた。かんしゃくもちで、執着心が強く、強情。読んでいる途中は断片でしかなかったこれらのエピソードが、閃光のような一文の磁力に吸い寄せられ、葡萄の房状に物語の厚みがいきなり増す。こんな作品を20代後半で書いたなんて、恐るべき才能だ。

 本書の終わりで、悦子はもうロンドンに帰るというニキに伝える。「あなたのお父様は、ときどき観念的になってね。あのころだって、こっちに来れば景子は幸せになれると本気で信じていたのよ」。でも、悦子には初めからわかっていた、英国に来ても景子は幸せになれない、「それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」。

 私に言わせれば、最も映像化にむかない文芸作品。イシグロは映画にエグゼクティブプローデューサーとして参加していると聞く。イシグロの文章の上でのハラグロい技巧がどんな映像になっているのか、映画館に足を運んで、ぜひ確かめねば。