
コスメティックのエッセンスを時計に
このところ筆者が気になっているのは、シャネルの『アミュレット ネックレス プロテクト ミー』だ。ディスク型のネックレスウォッチで、コンパクトケースの鏡に映った目をイメージしているという。その目はガブリエル シャネルの目。写真家ボリス・リプニツキがフィルムに焼きつけた、在りし日のマドモアゼルの目だ。
2025年の最新作『シャネル BLUSH ウォッチ カプセル コレクション』は、メゾンのビューティーの世界にオマージュを捧げたウォッチ カプセル コレクション。リップスティックやアイシャドウを始め、女性たちの心をとらえるメゾンのメークアップの豊かな色彩や、洗練されたコスメティックがインスピレーションの源になっている。『アミュレット ネックレス プロテクト ミー』はその白眉。
シャネル『アミュレット ネックレス プロテクト ミー』。クォーツ、ブラックコーティングを施したチタン、YG、ダイヤモンド、オニキス、エナメル。ダイヤル径19mm。6820万円。ユニークピース
目の部分には伝統的な高温焼成エナメルの技が用いられ、約2ヵ月を細密描写に費やしたという。その周囲には濃淡のファンシーブラウンダイヤモンドやカラーレスのダイヤモンドを厳選して敷きつめ、ニュアンスのある肌の質感を出している。
クリエーションに共通する理念
「私が惹かれたのは、シャネルのビューティー アイテムに宿る、有無をいわせぬエレガンスです」とコレクションを語る、シャネル ウォッチメイキング クリエイション スタジオの気鋭のディレクター、アルノーシャスタン。「シャネルのメークアップのパレット、ペンシル、ブラシ、パウダーやそれらのテクスチャーは、オート オルロジュリーの世界とも共通する理念があります」
シャネルのプロダクトは、すべてが創業者であるガブリエル・シャネルに結びつく。シャネルらしいかどうか、それがプロダクトのあり方を決める。
1936年に撮影されたガブリエル シャネルのポートレート。© Boris Lipnitzki / Roger-Viollet
目のモチーフは邪視を防ぐ護符
目は古くから護符としてよく用いられてきた。にらむだけで人を石に変えるメドゥーサのような、強い魔力をもった視線をはねのけるために、目を描いたお守りに頼ったのだ。青い目のガラス玉、トルコのナザール・ボンジュウやギリシャのヴァスカニアは今なおポピュラーな存在。嫉妬や悪意をもった視線から、青い目が守ってくれると信じられているのだ。
シャネルのネックレスウォッチも、アミュレット(護符)、プロテクト(守護)というワードが入っているから、そうした古来の意味を込めてデザインにマドモアゼルの目をあしらったのかもしれない。
象牙の小片に水彩で女性の青い目を描いたアイ・ミニアチュール。涙を意味するパールで周囲を縁取っている。作者不詳、1790〜1810年頃、フィラデルフィア美術館所蔵。© Philadelphia Museum of Art
ここで筆者が思い浮かべたのは、18世紀末に人気を博した「アイ・ミニアチュール」だ。恋人や家族の片目だけを描いた、切なく美しいジュエリー。中に髪の毛を入れたりして、大切な人を思うため、あるいは故人を偲ぶよすがとして身につけた。極めて私的な装飾品である。
英国王ジョージ4世が王太子だった頃、許されぬ恋の相手に結婚指輪の代わりに贈ったのが、自分の目の細密画を描かせたジュエリーだった。これをきっかけにアイ・ミニアチュールはヨーロッパ中で流行したが、ブームは短く、わずか30年ほどで忘れ去られた。良好な状態で現存しているものは非常に少なく、今では幻のジュエリーとなっている。
ジュエリーから見られる、という逆転
目は人にとって最も重要な感覚器官であり、魂の窓ともいわれる。ジュエリーや時計は“見る”ものだが、目が描き込まれることで、ジュエリーや時計から“見られる”ようになる。主体と客体の逆転だ。今ここにはいない人が、じっとこちらを見つめてくる視線。声なき声で何を伝えたいのか、秘された何かを見抜いたのか、その視線にぞくりとする人もいることだろう。
シャネル『マドモアゼル J12 BLUSH キャリバー 12.1』。自動巻き。高耐性ブラック セラミック、マットブラックコーティングを施したステンレススティール、バゲットパターン サファイアクリスタル、ダイヤモンド、パウダープリント。ケース径38mm。277万2000円。2025年9月1日発売、リミテッドエディション
ガブリエル シャネルは、さまざまな形でウォッチの文字盤に姿を現す。『シャネル BLUSH ウォッチ カプセル コレクション』に新たに加わるモデル『マドモアゼル J12 BLUSH キャリバー 12.1』では、正面からガブリエル シャネルがにこやかに見つめてくる。
文字盤の下方には、5分間に1周のペースでゆっくりとめぐる回転ディスクが配されている。ディスクに描かれているのはリップスティック、アイシャドウ、パウダー、ネイルエナメルといったアイテム。コスメティックを前にしたマドモアゼル──そう、彼女はメークアップテーブルの前に座っているのだ。
この時計のマドモアゼルは、メークアップテーブルの鏡に映る自分を見ているのだろうか。それとも彼女が生きた激動の20世紀から、はるか時空を超えて現代の私たちをじっと見ているのだろうか。
シャネル『ボーイフレンド BLUSH』。クォーツ。ブラックコーティングを施したステンレススティール、ブラックスピネル、ラッカー、カーフスキンストラップ。ケースサイズ27.9×21.5×6.2mm。125万4000円。2025年9月1日発売、リミテッドエディション
マドモアゼルが投げかけるキッス
対して「ボーイフレンド BLUSH」のデザインは、ポップアートから想を得たグラフィカルなタッチが楽しい。キュートにウィンクし、投げキッスをするマドモアゼル。文字盤だけでなくベゼル、ストラップも甘いピンクで揃えられていて、ポジティブで明るい気分にさせてくれるウォッチだ。そしてマドモアゼルの黒い瞳には強い存在感がある。
実はチャールズ・ディケンズの小説『ドンビー親子』にもアイ・ミニアチュールのジュエリーが登場するのだが、そのミニアチュールはどんよりとしており「魚のように老いた目」だと書かれている。やはり目ヂカラは重要だ。瞳が力強くあればこそ、ものいわぬ肖像画が今にも何かを語りかけそうに生き生きと輝くのだ。
意志のある瞳でこちらを見つめてくるシャネルのウォッチは、こんなふうに“見る”ことと“見られる”ことを意識させ、視線の先にあるものを考えさせるという点で、とてもユニークなのである。筆者はちょっと深読みしすぎだろうか?
