大谷 達也:自動車ライター

ジャーナリストが訪れることのないプルービンググラウンド
昨秋、私はフォルクスワーゲンに招かれてエーラ=レッシエン(Ehra-Lessien)のテストコースを訪れた。
これは試乗会でもなければなにかのメディアイベントでもない。このとき、私は社外の人間としてただひとり、この謎めいた施設に立ち入ることを許されたのだ。

試しに「エーラ=レッシエン」をネットで検索してみるといい。いろいろな検索結果が出てくるかも知れないが、施設に関する情報は恐ろしく限られているはずだ。
ちなみに、ドイツ北部のこの地にフォルクスワーゲンがテストコースを建設したのは、本社があるウォルフスブルグからクルマでおよそ30分の距離にあることが主な理由だが、一説には、まだドイツが東西に分かれていた時代、東西国境に近いこの地域は飛行禁止区域とされていたために選ばれたとも言われる(エーラ=レッシエンの完成は1968年)。ちなみに、フォルクスワーゲンの広報担当によれば、ここ数年でエーラ=レッシエンへの立ち入りを許されたメディア関係者はドイツ人ジャーナリストがひとりだけで、それもごく限られたエリアに入場したのみという。

そんな特別な場所に、なぜ私はひとり招かれたのか?
ティグアンとパサートで感じられた改善
直接のきっかけは、2024年7月にフォルクスワーゲンのエンジニアとリモートでディスカッションしたことにある。
同じ年の2月、ティグアンとパサートの国際試乗会に参加した私は「乗り心地に不満があった最新のゴルフ(通称:ゴルフ8)に比べると、ティグアンとパサートには改善のあとが見られた」という主旨の試乗記を各メディアに寄稿した。これを目にしたフォルクスワーゲン・ジャパンの広報担当者が本社に掛け合い、エンジニアと議論する場を設けてくれたのだ。

このディスカッションで、私は次のように述べた。
「質感が高く、安定性に優れた乗り心地は、長年、フォルクスワーゲンの美点だった。しかし、ゴルフ8ではどっしりとした印象が薄れるとともに、大きなショックが足回りに加わったとき、足回りかボディのどこかに微振動が見られるようになった。しかし、新型のティグアンとパサートは、ゴルフ8に比べて安定性が改善されたほか、微振動も改善されていた」
これを聞いたエンジニアのフローリアン・ウンバッハは、私にこう語りかけたのである。
「あなたが感じた微振動はおそらくホイールコントロールに関係するものでしょう。それはともかく、私たちのテストコースを一度、訪れてみませんか?」
私のエーラ=レッシエン訪問は、こうして動き始めたのである。
おそらく世界最大の自動車試験場
様々な紆余曲折を経て実現したエーラ=レッシエンでの取材は、まさに驚きの連続だった。
その入場門こそ決して大きくないが、内部はうっそうとした森のようで、自分が施設内のどこにいるのか、まったく見当がつかなかった。それもそのはず、エーラ=レッシエンは南北におよそ10km、そして幅1kmほどの恐ろしく広い敷地を有していたのである。しかも、私はこの時点で、施設の南端にあたる1kmほどの範囲を移動したに過ぎなかったのだ。

その後、フローリアンは私をテスト車両の1台に乗せて、エーラ=レッシエンの隅々まで見学させてくれた。なかでも圧巻は、直線部分だけで9km近い長さを誇る高速周回路で、フローリアンは「この直線に立つと、地球が丸いことがわかりますよ」と教えてくれた。

ちなみに、フォルクスワーゲン・グループの一員だったブガッティが、エーラ=レッシエンの高速周回路でシロン・スーパースポーツ300+というモデルの最高速テストを行い、量産車として史上最速となる490.484km/hを記録したことは、エーラ=レッシエンをネット検索された方であればすでにご存知のとおり。これほど高い車速域を試験できる自動車用テストコースは、世界中のどこにも存在しないとされる。
いや、他に例を見ないのは高速周回路だけでなく、ハンドリングコースにしても乗り心地試験路にしても、私がこれまで取材したどんなテストコースよりも規模が大きく、そして過酷な条件で試験できる環境が整っていた。

私は以前、かつてフォルクスワーゲンが販売していたリッターカーのアップ!と、とある日本製コンパクトカーの比較テストを行ったことがある。このとき、路面が平滑な舗装路では日本製コンパクトカーが良好な乗り心地を示したものの、荒れた路面や大きな段差を通過したときにアップ!は乗り心地が悪化することなく、快適性と安定性で日本製コンパクトカーを大きく凌ぐことを確認した。つまり、条件が悪ければ悪いほど本領を発揮するのがフォルクスワーゲンだったのだ。そして、そういった骨太なクルマ作りを可能としているのがエーラ=レッシエンであることを、このとき初めて理解したのである。
きっと、フローリアンはこのことを教えたくて、私をエーラ=レッシエンに招いたのだろう。

なぜゴルフ8の乗り心地には違和感があったのか?
では、なぜゴルフ8の乗り心地は、私が考えるフォルクスワーゲンの規準を満たしていなかったのか。私がそう訊ねると、フローリアンは次のような言葉を口にした。
「私は2007年から2016年までブガッティに出向していました」 ちなみにゴルフ8は2019年のデビュー。おそらく、2016年にフローリアンがブガッティからフォルクスワーゲンに戻ってきたとき、ゴルフ8はほぼ完成しており、彼はその開発に直接関われなかったか、関わっていたとしても抜本的な対策は施せなかったと推察される。
なお、前述したホイールコントロールとは足回りが共振を起こす現象である。これまでは様々な技術的な努力でホイールコントロールを抑え込んでいたものの、省燃費化の要請から低転がり抵抗タイヤをゴルフ8に採用したところ、ホイールコントロールの問題を解決しきれずに微振動が発生してしまったとフローリアンは説明してくれた。
悪い条件はほかにもあった。
この時期、フォルクスワーゲンは初のEV専用モデルであるI.Dシリーズの開発に追われていた。しかも、当時のCEOはコスト削減に厳格だったヘルベルト・ディース。そうしたしわ寄せはゴルフ8の開発にも影響し、エンジニアたちは「やりたいことができない」ジレンマに苦しんでいた模様。こうしたなか、本来であれば対処できたはずのホイールコントロールを解決できないまま製品化してしまったのが、実情だったようだ。
しかし、2022年にディースは辞任。かわって、ポルシェの会長を務めてきたオリバー・ブルーメがフォルクスワーゲンのCEOを兼任することになった。

「ブルーメとディースでは大きく異なります」とフローリアン。「ブルーメは品質の重要性をよく理解しています。なにしろ、どれほどコストダウンしたところで、品質が低ければお客さまには選んでもらえず、利益を上げることはできません。ブルーメは現在、品質の改善に取り組んでいるところです」
工場閉鎖の話題と品質との関係は?
いっぽうで、現在フォルクスワーゲンといえばコスト削減のためドイツ国内の工場を閉鎖することが取り沙汰されているものの、関係者の話によれば、これはまったく別の事情によるものという。そもそもフォルクスワーゲンは2024年第3四半期に129億ユーロ(約2兆円)の利益(EBIT)を挙げている。これは前年同期の162億ユーロ(約2兆6000億円)を下回る成績ながら、営業利益率は依然として5.4%を確保しており、抜本的な経営改革が必要な状況とは言い切れない。
一説によれば、今回のコスト削減騒動は6.5%以上の営業利益を求める株主の要求に応えるものだが、ブルーメら経営陣は製品の品質を落とすことなく、生産性の向上やプロジェクトの取捨選択を進めることで、この難局を乗り切っていく方針という。
いずれにせよ、フォルクスワーゲンの品質改善が確実な成果を挙げていることは、ティグアンやパサートだけでなく、マイナーチェンジを受けた最新のゴルフ(一般にゴルフ8.5と呼ばれる)に試乗すればたちどころにして理解できる。そこからは、一時期のいびつなコストダウンの影響など、まったくといっていいほど感じ取れないからだ。

もちろん、株主の求める営業利益を確保しながら品質の改善も達成し、それと同時に電動化も押し進めるのは至難の技だろう。しかし、前述したとおり新経営陣は品質の重要性を十分に認識しているので、フローリアンを始めとする技術陣が腕を振る余地は格段に広がっているはず。そして何より、彼らにはエーラ=レッシエンがある。
フォルクスワーゲンがかつての栄光を取り戻すのも、そう遠い将来のことではないと期待したい。