次女を三条天皇の中宮に
一条天皇に代わって即位した三条天皇は、天延4年(976)に生まれた。道長より10年下である。
父は坂東巳之助が演じた円融天皇の兄・冷泉天皇、母は段田安則が演じた藤原兼家の長女・超子だ。一条天皇と同じく、道長の甥にあたる。
寛和2年(986)6月、「寛和の変」で本郷奏多が演じる花山天皇が出家・退位し、一条天皇が7歳で即位すると、7月16日に、11歳で皇太子となった。天皇より皇太子が年上なのは珍しいという。
一条天皇の在位が25年という長期に及んだため、即位したときはすでに36歳であった。
三条天皇は即位の前年の寛弘7年(1010)、35歳のとき、17歳の道長の次女・姸子を皇太子妃に迎えている。
姸子は三条天皇の即位の翌年(寛弘9年)、中宮に立后した。道長のごり押しに近い立后だったのではないかとみられている(編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』所収 高松百香「三条天皇——反摂関政治の種をまく」)。
三条天皇に退位を迫る
三条天皇は姸子を中宮としたものの、四男二女をもうけた皇太子時代からの妃・藤原娍子(亡き藤原済時の娘)も皇后として立后させた。
一条天皇に続き、三条天皇の時代も、「一帝二后」が現出したのだ。
娍子の亡父は大納言にすぎず、後見もない娍子が立后するなど、宮廷社会の常識では考えられないことであった。
だが、三条天皇は寵愛する娍子が産んだ皇子を皇太子にするために、娍子を皇后とする必要があったと考えられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第四章 藤原道長 ——紫式部と王朝文化のパトロン」)。
これまでの道長と三条天皇は、多少の意見の相違はあっても、決定的な衝突にまでおよんではいなかった。しかし、この一帝二后により、深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。
やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。
道長は、産まれたのが皇子でなかったことが不服だったのか、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和2年7月7日条には、「悦ばざる気色、甚だ露はなり」と不機嫌な様子であったことが綴られている。
また、三条天皇は眼病を患い、『小右記』長和3年(1014)3月1日条によれば「近日では、片目が見えず、片耳が聞こえない」という状態に陥っていたという。
道長は、そんな三条天皇に見切りを付けた。道長は皇太子で道長の孫である敦成親王に譲位するよう、三条天皇に強く迫っていく。
三条天皇は激しく抵抗したが、退位を余儀なくされ、娍子が産んだ第一皇子・敦明の立太子を条件に、敦成親王への譲位を受け入れたという。
長和5年(1016)正月、敦成親王が9歳で即位して、後一条天皇となった。道長は、念願の天皇の外祖父の地位を手にしたのだ。