望月の歌
道長は後一条天皇の即位にともない、外祖父として摂政の座に就いた。
翌寛仁元年(1017)3月、道長は摂政も辞し、内大臣となった渡邊圭祐が演じる道長の嫡男・藤原頼通にその地位を譲った。
しかし、道長は退任後も「大殿」と称し、政治を主導し、権力の中心に立ち続けた。
同年5月9日、三条院が疫病に罹り、42歳で崩御した。
すると、父・三条院という後ろ盾を失った皇太子の敦明親王が、8月、自ら皇太子を辞退する。
道長はすかさず、彰子の産んだ敦良親王(後一条天皇の弟/のちの後朱雀天皇)を皇太子に立てた。
こうして道長は、天皇と皇太子の外祖父という立場を得て、政治的な基盤はより確かなものとなった。
そして、寛仁2年(1018)、道長の栄華が最高潮に達する日がやってくる。
後一条天皇を11歳で元服させると、道長の四女(源倫子の産んだ女子としては三女)の威子を入内させ、10月に中宮となった。後一条天皇の叔母にあたる威子は、このとき20歳であった。
これにより道長は、一条天皇に彰子、三条天皇に姸子、後一条后天皇に威子と、3人の娘を天皇の后としたことになる。
道長のかの有名な「望月の歌」は、10月16日の威子の立后儀式のあとに催された道長邸での本宮の儀の穏座(二次会の寛いだ宴席)において、詠まれたものだ。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へ
(この世を我が世と思う。望月が欠けることもないと思うので/倉本一宏『現代語訳 小右記9』より)
道長、53歳のときのことである。
栄華の影で、道長は体調を崩し、胸痛と眼病に苦しめられていた。
晩年
寛仁3年(1019)3月、病の癒えない道長は、ついに出家を遂げた。
浄土信仰に傾斜する道長は、極楽往生を願い、自身の邸第である土御門第の東隣に、法成寺という寺院を建立する。
道長は万寿4年(1027)12月4日、62歳で病没した。実際には背中の腫物の痛みに苦しみながらの悶絶死であったようであるが、歴史物語『栄花物語』巻第三十「つるのはやし」には、この法成寺阿弥陀堂で、九体の阿弥陀仏から垂らした五色の糸を握りながら、息を引き取る場面が描かれている。
ドラマの道長の死は、穏やかであることを祈りたい。