文・撮影=Aya Kashiwabara 編集協力=春燈社

ウィーンにあるカフェ『フラウエンフーバー』外観

ベートーヴェンの創作を支えたコーヒー

 クラシック音楽で最も有名な曲といえば、どんな曲を思い浮かべるでしょう。多くの人はベートーヴェンの交響曲第5番『運命』をあげるかもしれません。しかしベートーヴェン本人は、最も出来がよいのは何をおいても交響曲第3番『英雄』であると述べています。

『英雄』という曲には当初、別の曲名がつけられていました。それは『ボナパルト』というもので、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトのことです。フランス革命後の混乱期、民衆の自由と平等のために戦うナポレオンの姿に感銘を受けて、ベートーヴェンはこの曲をナポレオンに捧げようとしました。

 しかし、ナポレオンが自ら皇帝の地位に就き、軍事独裁を始めたという知らせを受けたベートーヴェンは失望します。そして、怒りに震える手で、楽譜に書いた『ボナパルト』をかき消すと、『英雄~ある英雄の想い出のために』と改題したのでした。

 幼い頃から父のスパルタ教育に耐え、家族を経済的に支え、身分による差別を受けるなど、苦労の連続であったベートーヴェン。同世代のナポレオンは輝かしい「自由」の象徴であり、憧れの存在でした。それが一転、権力を握った暴君と化し、ベートヴェンの心はどんなに激しくかき乱されたことでしょう。

『ボナパルト』という曲名がかき消された原譜

 同時代に活躍し、不思議な縁で繋がっていたナポレオンとベートーヴェンには、コーヒー好きという共通点がありました。とりわけベートーヴェンにとっては創作活動にコーヒーは欠かせなかったようで、毎朝の儀式として、コーヒー豆を60粒きっちり数えてから、自ら挽いて飲んでいたといいます。来客をもてなす際は特に念入りに―間違っても59粒や61粒であってはならないと―数え直すほどのこだわりがありました。

創作活動に没頭するベートーヴェン。コーヒーカップはどこにも置けそうにない

 日本ではベートーヴェンというと『英雄』よりも、年末コンサートでお馴染みの『第九』のほうが、親しみがあるかもしれません。ドイツの詩人シラーの詩『自由賛歌』を合唱として盛り込んだこの交響曲は、EUのテーマ曲にもなっている、自由と幸せの歓喜に満ちた晴れやかな曲です。

 しかしこれは晩年、ほぼ聴力を失ってから作曲された曲でした。音楽家としては致命的な耳の病に、一度は思いつめて遺書までしたためたベートーヴェンでしたが、そんな彼を絶望の淵から救ってくれたのは、ブランデーであり、そしてコーヒーでした。彼はこんな名言を残しています。

「一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除いてくれる」

 当時は職人とみなされていた音楽家の地位を、音楽史上初めて芸術家へと高めたベートーヴェン。難聴は自ら死を選ぼうと考えたほどの苦悩でしたが、療養中に芸術家としての使命に目覚め、『英雄』や『第九』という最高傑作を生みだしました。自ら毎朝挽いていたというコーヒーの香りは、彼の創作意欲を刺激し、最高のインスピレーションをもたらしてくれていたことでしょう。