文=石崎由子
シードルが結んだ2つの国の2人の女性
もともとワインの世界で用いられてきた「テロワール」という言葉。この言葉がもたらす考え方は、近年広くお酒だけでなく食全般、さらにはプロダクトなどにも用いられ製造される過程で、その哲学を反映されるようになりました。
“風土の、土地の持つ個性の自然環境要因”といった意味を持つこの言葉とともに生産活動をすることは、サスティナブルな活動にも強く影響をもたらすということもあり、これからもより一層注目されていくキーワードではないでしょうか。
このテロワールという言葉の発祥の土地、フランスにはワインの他に古くから食卓を彩り、季節の催事などで必ず登場するほど愛されているシードルというお酒があります。日本人にはワインほど馴染みがなく、もしかしたらアップルサイダーのアルコール入りといったイメージを持つ方も多いかもしれません。シードルは作られる地域が限られていることもあり、ややローカル色を強く持つお酒でもありますが、近年フランスではパリなど都市部を中心に流行に敏感な愛飲家たちに再注目されています。それはまるで日本における日本酒の再注目、再構築にも似たような現象です。
そんなシードルの中でもノルマンディー地方で風土の特性と環境を引き継いだりんごの栽培から、伝統的な古来醸造製法を用いたシードル造りを続け、未来への継承と挑戦を続けるフランス人女性と、その生き方に感銘を受け日本に紹介しようと奮闘する2人の女性によって、私たちの食卓へと届けられるHEROUTというシードルを紹介します。
“本物のシードル”
今回お話を伺ったのは前述した日本人女性、イリス慶子さんです。彼女はフランス音楽を奏でるミュージシャンとフランス語の翻訳・通訳を生業としていた方でしたが、今回ご紹介するHEROUTというシードルの生産者で代表でもあるマリーアニエス・エルー(以後マリーアニエスと表記)と出会いからシードル輸入・販売を行うことになります。「あなたは本物のシードルを知ってる?」そんな彼女の問いかけから始まった物語は思いもよらない広がりを見せていくことになります。
出会いは日本で行われたフランスのお酒(ワイン、シャンパン、カルバドスなど)の販売会の通訳をイリス慶子さんが務めた時だったそうです。カルバドスの紹介で参加していた(カルバドスはシードルを蒸留して作られます)マリーアニエスから投げかけられたその言葉に戸惑いながらも試飲させてもらい、衝撃を受けたのだそうです。そのまますっかり仲良くなった2人は再会を約束し、翌年にイリス慶子さんが彼女のいる醸造所「メゾン・エルー」を訪ねることになります。そこで改めて美味しさと、その特別な製造方法や、りんごの栽培方法、マリーアニエスの思いや哲学を知りぜひ紹介したいと強く思うようになったそうです。
ノルマンディーの原風景を支えるシードル
さてイリス慶子さんが衝撃を受けたというその味ですが、HEROUTは今まで知っていたシードルとは全く違い、苦さと酸味の奥にほんのりと漂う甘みがあり、フレッシュでありながら奥深い芳醇さを味わえるシードルです。香りはほし草、潮風を感じノルマンディの風景画思い浮かぶようです。生きた発酵を感じる奥深さはナチュールジョージアワインにも似た感覚を受け、初めて飲む方は、ほぼ衝撃を受けるはずです。
このHEROUTは前述もしましたが、伝統的なりんごの栽培方法と、醸造方法によって生み出されます。
まず注目するのはそのりんごの栽培方法です。
この地方では伝統的に森林と牧草地が混在する「ボカージュ」という地形で、畑や果樹園、牧草地を森林で囲い、それぞれの営みを行います。伝統的なこの風景が守られることで、この地域の独自の生態系も守られているのです。
この地形を維持するということにもマリーアニエスはこだわり続けています。実はこの地域は歴史的にも有名な第一次世界大戦でノルマンディ作戦が遂行された地域で、戦後荒廃したこの場所を未来のために再生させようと、マリーアニエスの両親が、りんごの木を植えて再生させたのだそうです。「りんごの木下に牛がいる長閑な風景」両親の思いがこの地の原風景を未来へ残すことへつながったのだそうです。
1946年より有機農法で育てられている果樹園の足元は芝生化されていてりんごが落下した時のダメージを軽減しています。それは彼らが木成り完熟のりんごを収穫しているからです。収穫時期やスケジュールのコントロールができなくて手間はかかりますが、熟したりんごを選びながら収穫していきます。
日本のシードルは食用のリンゴでの余剰分や、傷物を使用してという町おこし的なものが多いので、私たちはよく口にするあのりんごの実を想像しますが、現地ではシードル用のりんごを栽培しています。実はこちらがりんごの原種で、もっと小ぶりで、酸味や苦味が多い種になります。しかも「メゾン・エルー」では実に25種類ほどの固定種を中心としたりんごを栽培しています。この多様なりんごを混ぜることで独特の風味が生まれるのだそうです。
古来製法を守り醸造されるシードル
伝統的な栽培方法で育てられ、収穫されたりんごは、古来製法を守りじっくりシードルへと醸造されます。収穫された25種のりんごはアメール(苦い)、ドゥ―スアメール(ほろ苦い)、アシッド(酸っぱい)、シュクレ(甘酸っぱい)の4つのカテゴリーに分かれていてこの風味の違いをバランスよくブレンドしていきます。これら自家有機栽培のリンゴを100%使用し、水や着色料、糖分を一切加えず、一次発酵の野生酵母のみ使用し発酵するので、炭酸ガス添加や加熱殺菌という工程は行いません。そのため酵母は生きた状態を保ち瓶内発酵し続けます。このような古来製法を徹底することによって、メゾン・エルーのシードルは苦味を含みながらもみずみずしくフルーティーで奥行きを持つという高いクオリティーを保つシードルを生み出し続けているのです。
現在この伝統的な古来製法で醸造されるシードルはフランスでは僅か2%と言われて、この数字がいかに醸造に手間暇がかかり、希少価値が高いのかが伺い知れます。
その上このシードルの産地コタンタンはAOC(原産地統制呼称)認定されています。実はこのAOC取得に関してマリーアニエスが地域の同業者に呼びかけて認定までに至ったのだとか。シードルのAOCはフランスの国内では4ヶ所しか認定されていないのだそうです。実はこのコタンタン地方のシードルはフランスの歴代の王たちにも愛されてきた歴史もあると伺い、なるほどと納得してしまいました。
大切に守っていかないといけない風景や技術、そしてその価値をいかに高め、広げていくか、彼女の的確なビジョンが多くの人を巻き込み素晴らしい活動へと導いていったのだと思います。
信念を持ちながらもしなやかに生きるフランス女性
そしてその思いは海を渡り、もう一人の女性イリス慶子さんへ伝わり、全くの異業種でありながらも彼女を日本の人たちにHEROUTを伝えるという活動へ突き動かしていくことになります。
最初はどこか代理店を探してあげようかな、という気持ちだったイリス慶子さんですが、マリーアニエスの話を聞き、実際に醸造所や果樹園を見るうちに自らが伝えなければ伝わらないかもしれないという思いが膨らみ、とうとうクラウドファンディングで輸入の仕事を立ち上げていくことになります。
いろいろ準備が整い、さあ販売というときに、新型コロナウイルスの世界的流行という思いがけない事態が起こり、一時はかなり頭を悩ましたのだそうです。
それでも諦めずにできたのは、マリーアニエスという女性と出会ってしまったからなのだそうです。
子供の頃からなぜかフランスに轢かれ、文学も音楽も、ファッションもアートもいつもフランスのものに心を掴まれていたイリス慶子さんですが、「今思うと、私はフランスの女性が好きだったのかも、彼女たちの生き方が憧れだったのかもしれない」と語ります。
マリーアニエスさんはまさしくフランス女性を代表するような、信念をしっかり持ち、自らの足で立ち、長いスパンのビジョンと、内に秘めた熱い思いを持ちながら、しなやかに生きています。両親から引き継ぎ、未来へ何を残していくべきか、フランス(コタンタン)のためにできることをしっかりと、でも柔軟にこなし、伝えていく生き方そのものにイリス慶子さんは共感したのかもしれません。
“HEROUT”を未来へ繋げる彼女なりの方法
1946年両親がこの地にりんごの木を植え始め、1999年に2代目としてパリから戻り引き継いだマリーアニエスですが、実は今年の6月に次世代へ新しい方法でこの遺産を引き継義、第一線から立ち退きました。
「木を植えることは未来を信じること」そんな思いを持ちながら何かと急ぎ足で結果を出すことが求められる現代において、遥か遠い未来を見つめながら彼女は日々作業し続けてきました。コタンタンの原風景を守りながら、伝統的な古来製法でお酒を造ることで、環境、技術、生態系、文化を未来に繋げる、その彼女の思いはこの土地を愛する次世代の若者へ引き継がれていきます。
血縁関係ではなく、この土地をマリーアニエスさんのように愛し、同じ思いを抱く若者のイリスとジャンバティスト、この土地で育った幼馴染という2人は彼女の元で学び、守り続けた風景と技術、味と香りを、未来へ繋げる役割を今、担っています。
この継承という問題は、今日本各地の伝統的産業、農業、においても問われ続けている問題ですが、テロワールという言葉発祥の地らしく、地域の継承問題にも大きなヒントを私たちに投げかけてくれているようです。
強くしなやかで、温かいフランス女性の生き方が、地域の若者だけでなく、1人の日本人女性を突き動かし、美味しいお酒と共に日本へ未来に向けてのメッセージを届けてくれているのかもしれません。