「生まれて、すみません」の毒素に冒される
1934年(昭和9)、太宰は檀一雄、中原中也、山岸外史らと文芸誌『青い花』を刊行します。創刊号だけ出して廃刊になり、空中分解してしまいますが、慶応大学で箱根駅伝にも出場した寺内寿太郎という詩人も関係していました。寺内は大学卒業後、会社に勤めをするのですがとことん失敗して、ガリ版刷りで遺書のような詩集を作って、太宰など『青い花』関係者に送りました。そこには「生まれて、すみません」という言葉が書かれていたのです。
寺内は太宰の親友でもあった山岸外史に、「これは剽窃だ。俺は命を盗まれたような気持ちだ」と訴えた後、行方知れずになってしまいます。山岸も「なんてことしたんだ。人の言葉を無断で使うのは、人の魂を奪うことだ」と太宰を責めたといいます。
太宰がこの言葉を使った理由は、山岸の言葉だったと勘違いしていたからでした。山岸と太宰の間にはどちらかが売れればいいということで、お互いが使った言葉を自由に使ってかまわないという取り交わしをしていたのです。
誤解から犯してしまった「剽窃」だったかもしれませんが、この時から太宰は文章を書きながら人の言葉を使ってしまっているんじゃないか、自分は偽物なんじゃないか、ということを意識し始めます。おそらく作家としての自分の存在意義に、自信をなくしてしまったのだと思います。
さらに「生まれて、すみません」という言葉が自分の身の中に染み込んでいき、毒素のように太宰を冒していきます。
川端は表向きには言っていませんが、心中で女性だけがなくなり、自分だけ助かった。それでもそれを題材にして小説として書くというその汚さは、小説家として認めるわけにはいかないのではないか。そうと思っていました。
それに加えて人の言葉を自分の言葉として使ったことが、川端はじめ世間に知られていると思った太宰は、もう、どうしようもない所に行くしかなかったのではないでしょうか。
1938年(昭和13)、初代と別れた後、井伏鱒二の紹介で地質学者・石原初太郎の娘・美知子と見合いをし、翌年結婚します。しかし、その後歌人の大田静子と知り合い、子どもをもうけるほどの仲になります。太宰は死の前年、大田静子の日記を借りて『斜陽』を書き、その年ベストセラーになります。大田静子は太宰のために日記を焼いたと伝わっていますが、太宰が山崎富栄と心中した後に、「あれは私が書いていた文章を太宰が盗ったものです」と、裁判沙汰にしています。
なんとか生きて行かないといけないということはあったにしろ、太宰は自分で自分をダメにしてしまうような生き方を選びました。
『二十世紀騎手』を書いた時、太宰はまだ28歳でした。これから小説で身を立てていこうという時に、人の文章を盗み、その毒が回って駄目になったとするならば、『二十世紀騎手』を書いた時点で、既に分岐点を自分で選んでしまったのかもしれません。
山崎富栄にも自分は独身だと嘘を言って仲良くなり、今で言うなら1000万円もの富栄のお金を、抱えていた面倒をチャラにするため使い果たしてしまいます。
そして蜘蛛の巣にかかったように、もがけばもがくほど逃げ場がなくなり、心中を選んでしまうのです。
弱い自分、みっともない自分を知り尽くしていた太宰は、死ぬことにだけ命をかけて行くという生き方でした。そういう目で作品を読むと、よく理解できると思います。
山岸外史は、疎開で東京を離れていたので、自分がもしも太宰のそばにいてあげられたら心中しなかったんじゃないかと言っています。
太宰の弱さはどこからくるものなのか、そして何度か死を選んだ理由とは何かについては、後編で述べたいと思います。